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『アズールレーン』6話と非実在青少年

 『アズールレーン』第6話はエンタープライズが起床するシーンから始まる。無味乾燥な軍用レーションではなく食堂で朝食を取ることを選び、付き添うベルファストに食卓を共にするよう勧める。メイドの役目があると辞退しようとするベルファストにエンタープライは「一人では食べきれそうもない」と建前を与えることで、相伴を促す。

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 一方、重桜では街で買い物をする赤城と加賀、そしてたい焼きを求めて駆けまわる三日月たちの姿が、またアズールレーン陣営で開かれているバザーを皆が楽しんでいる様子が映し出される。 

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 このように第6話は戦闘を目的として生まれたKAN-SENたちの、戦闘ではない日常風景とそれを謳歌する様子がアズールレーン/レッドアクシズの両陣営共に描かれえる。
 そういったKAN-SENの様子を「まるで人の街みたいだ」と評するエンタープライズにベルファストは「私たちは人ですよ」と答える。それを「わからない」というエンタープライズに対し更に
「新しいことをはじめてみるのは良い考えだとおもいます(中略)戦い以外の何かを」

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「大いにお悩みください。そのために私たちは人の形を得たのですから」 と語りかける。

 ここで私たちは彼女たちKAN-SENがただの兵器ではなく、他人を思いやる嘘をついたり日常を尊び食事を楽しみ、自分の在り方を考え悩む生身の「人」とほとんど違いが無い(それこそベルファストが言うように「私たちは人」である)ことを示され、また兵器としての自分に固執していたエンタープライズが少しずつそれだけではない「人」であろうとするのを、一種の「成長」として喜ばしく感じる。
 
 そういった「彼女たちもまた変わらず人である」ということを十分に提示した上で、KAN-SENの入浴シーンにおいてユニコーンは突如泣き出す。

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「ユニコーン、背低いのに胸だけこんなですごく変」
 いわゆるロリ巨乳とでもいうような、低い身長に幼い顔立ちと巨大なバスト。それをアンバランスで「変」だと感じたユニコーンは涙を浮かべる。前半部では「そのために人の形を得た」として好意的に艦船ではなくKAN-SENである、道具としての形ではなく人の形をしていることを意味していた言葉が、ここでは”そのように作られた”姿が迷いとして立ち上がる。
 それはエンタープライズが「人の形」であることを受け入れた先で待つ「悩み」の先取りでもある。KAN-SENとして「私たちは人だ」と思うことで、本来は存在しない自我を製造物が持つようになる。兵器としてなら「機能」などで説明できるフォルムがKAN-SENとなることで「人の形」として生まれた「私の在り方」の捉え直しを強要するのである。だからユニコーンは「艦の形」ではなく「人の形」として「すごく変」だという自認を得てしまうのだ。
 それは前半部分でエンタープライズが「人である」ことを受け入れようとする姿を「成長」として喜ばしく感じた私たちを責めるようだ。自我の無い道具ならどんな形であろうとも、その道具が何かを感じることはないだろう。しかしKAN-SENとなり「人の形」を得た彼女らには自我が宿る――そしてその自我が宿ることを私たちは「成長」として喜びさえしているのだ。
 
 問題はそのユニコーンが自身の「人の形」で悩む場面を徹底して裸が乱舞する風呂のシーンで繰り出していることだ。

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 KAN-SENたちの裸体を映し出す場面で、自身に宿った自我によって悩むということ。それは「彼女らの裸を見る/描く」ことの倫理性、つまり「人の形を取ることで自我が生まれるとするならば、私たちはキャラクターの人権(のようなもの)を認めなければならないのではないか?」という部分を意図的に揺さぶっている。
 
 彼女たちに自我が宿ることを喜ぶとき、同時に私たちは彼女たち「虚構のキャラクター」をどのように扱うのかを問われる。
 果たして私はキャラクターの人権を認めてなお、入浴シーンを覗き見ることが許されるのだろうか?

 あるいは許される許されないにしろ、そういった欲望を私たちは持っていて彼女たちの裸を描く/見ることを、言い換えれば「虚構のキャラクターを思い通りに操ること」を楽しむとき、その行為が持つ意味にどこまで真摯でいられるのだろうか。

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