『神様になった日』感想--佐藤ひなとは「誰」だったのか。
『神様になった日』は2017年の劇場アニメ映画『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』と近い問題に取り組んだ作品であった。
私は過去『アニメクリティークVol.7』において『打ち上げ花火~』に関する論考で
”観測者が居なければ存在できない、という虚構のキャラクターの脆弱性を典道は「描かれてもいず、視認もできない、しかし存在する」ことによって乗り越える。『打ち上げ花火?』において、典道は製作者・観測者にその存在を委ねることなく、物語の終わりや、製作者・視聴者が居なくなるといった「現実」での消失に先んじて物語の表面から消滅し、私たちからは認識できない(しかし可能性があることを窺うことができる)別の虚構世界で存在することを示唆する”
と述べた。作品としてパッケージされた物語が終わったあとでも、それを見届けた現実の私たちの生活が当然のように続くのと同じく、虚構の中でも世界は「当然のように」続く、それどころか複数の可能性を同時に履行可能な虚構のキャラクターたちは一回性に囚われる現実の私たちに対する上位互換だ。というのが『アニクリVol.7』での主張であった。
その延長として、特に第10話「過ぎ去る日」以降の展開はその「一度終わった物語の中で続くもの」を描いている。
全知であるオーディンは消え去り、”ほとんどのことはできる”央人も自分の役割は済んだとばかりに陽太に後を託して後退する。それと同時に過ぎ去ったものがいる。それは「誰」か?
あるいは少し疑問を変えよう。オーディンと央人は決して直接対面することはなく、(それは狙っての行為ではあるが)同じようなイベントをなぞるように陽太たちと繰り広げる。つまりオーディンと央人は交換可能な役割を持ちながら、それは交換にしかならない/共存はできないものであり、捉え方によっては同一人物に近い……例えば2Pカラー、あるいは性別選択できるキャラクターといった関係になっている。
仮にこの『神様になった日』がアニメではなくアダルトゲーム(orノベルゲーム)であったとするなら、そのキャラクターが交換可能/必須であり、なおかつ全知でほとんどのことはできるという条件を満たすのは「誰」か?
それは他ならぬプレイヤーキャラクターである。
私たちはゲームの攻略サイトやWikiや掲示板、SNSの情報からゲームのシナリオや展開を知ることができるし、自分の望む結末へ向かうための「フラグ」を検索してそれを立てる選択肢を選ぶことができる。それはゲーム内世界で何が起こり、どうなっていくのかを事前に全て知ることができる、文字通り「全知」の立場である。
またセーブ/ロードや終了済みイベントのスキップ、あるいはMODの導入やプログラム自体の解析、テキストの書換までやろうと思ったらできないわけではない。けれどもそれが「ゲームである」という部分までは変えられないことや、プレイヤー自体の離脱を(それは単純に飽きてしまったとか、エンディングまで見て満足したとか、CG回収が100%になったとか、新しい作品が発売されてそっちに夢中になってるとか)強制的に修正することまではできない。つまり”ほとんどのことはできる”が決して「全能」ではない。
プレイヤーキャラクターはプレイヤーの示した選択肢通りに行動する。それはゲーム内世界において「全知」であるプレイヤーの知識によって、プレイヤーキャラクターは同様に「全知」として振る舞うことができる。代わりにプレイヤーからの指示が無ければプレイヤーキャラクターは行動もできないし、言葉を発することすら(クリックでテキストを送ることすら)できなくなる。一方でプレイヤーの意志が介入できないNPCたちは決して「全知」ではないが、プレイヤーの指示がなくても彼らなりの設定に従って行動できる(正確には「そう行動するであろうことが想定できる」というべきだが)。
プレイヤーの手によって操作されていた「全知」のオーディンは、プレイヤーがゲームの操作から離れた瞬間「全知」どころか歩くことも言葉を発することすらも困難な「ひな」になる。
作中ではひどく曖昧な描かれ方をされていた「脳に埋め込まれた量子演算装置」とはつまり、ひなの中に埋め込まれてメタレベルから物語を鑑賞していたプレイヤーのことである。
だから11話で陽太に投げかけられる疑問
「それは果たして本当にあの子だったのでしょうか?あなたはその革新的な機械に向けて話しかけ、その機械が反応して言葉を返していただけ。そうとも取れませんか?」
はプレイヤーとプレイヤーキャラクターの境目を問いかけるものだ。プレイヤーがテキストを読み、それによって提示された選択肢をクリックすることと、プレイヤーキャラクターがその声を聴き応えることの違いはどこにあるのか。
他のNPCたちはプレイヤーの目が届かない場所でも彼らなりの設定に従って動き続ける(動いていることが想定できる)が、プレイヤーキャラクターだけはプレイヤーの認識下でしか自発的な行動を取ることができない。
最初に述べたように”虚構の中でも世界は「当然のように」続く”のならば、むしろ主人公であったプレイヤーキャラクターだけがひなのように「なにもすることができない」ものとなってしまう。
『神様になった日』がゲームではなくアニメの形式を取るのはつまるところ「プレイヤーが離れたあとの世界」を描くのにもっとも向いてるメディアであったからだ。
フィクションに対して真摯に向き合おうとすればするほど、観察者/プレイヤーが離れたあとのその世界という存在が立ち上がってくる。それに対して何らかの答えを、あるいは希望を語ろうとした『神様になった日』は、虚構を愛するものにとって価値ある作品なのだ。
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