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子どもを二度亡くすということ

 数年前祖父が他界するまで、実家の仏間には遺影がふたつ飾られていた。どちらも白黒写真で、片方は曽祖母、もう片方は叔母だったひとだ。二人ともわたしが生まれる前にはもう亡くなっていたから、どちらにも会ったことはない。叔母は遺影の中で、わたしの母校のセーラー服を着ていた。

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 誰にでも、誰かと比べられて暗い気持ちに駆られたことがあると思う。それはたぶんきょうだいだったり、幼なじみだったり、親の過去だったりさまざまだろうけれど、わたしの場合は死者だった。
 ものごころついた頃から、「ともちゃん(叔母の名前)によく似てきたね」とまるで時候の挨拶でも交わすかのような気やすさで、親戚のおじやおばが繰り返し口にしていた。幼いころは父親似だったから、しぜん父の妹である叔母にもよく似ていたのだと思う。ときには「生まれ変わり」とまで言われたこともあったけれど、わたしにはよくわからなかった。どんなに似ていると言われようが、そもそも白黒の遺影一枚しか知らない。
 わたしが成長し小学校高学年あたりを過ぎると、今度は容姿は似ているけど中身はぜんぜん違うね、と言われ始めた。曰く、「ともちゃんはもっと大人しくて賢かった」。自分で言うのもなんだけれど、褒められこそすれ貶されるような成績では決してなかったから、比較されるのはだいぶん疎ましかった。

 今から思えばあれはたぶん、可愛い姪や大好きな従姉妹をとつぜんに失ったことへの、それぞれのとむらいの形だった。昔話のきっかけにわたしを引き合いに出しているだけで、そこにいるのはわたしではなく、もういない叔母なのだった。

 叔母が亡くなったのは彼女が十七歳のときだ。修学旅行から帰ってきて、疲れたから少し眠ると言って布団に入り、そのまま二度と目をさまさなかった。もう何十年も昔の話で医療技術もそれなりだったのだろうから、はっきりとした原因はわからないが、脳出血だったと聞いた。

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 いつだったか、父が酒に酔って「智子には悪いことをした」とぽつりとこぼしたことがある。父は三人きょうだいの長子で、その下に弟、末に妹がいた。父と叔父は、中学を卒業して家を出た。父が育ったのは今でいうネグレクト家庭で、親との関係が破綻しており、高校を中退して仕事を始めると家を飛び出したそうだ。つまり、わたしの祖父母はネグレクトの加害者ということになる。
 父を追って叔父も同じように家を出た。少し歳の離れた妹を一人、実家に残したまま。いつ帰るとも知らない親を待って一人で過ごすには、6LDKの田舎の家は静かすぎて、そして広すぎたかもしれない。

 祖父母の悔悟はついぞ聞いたことがなかったが、(もちろん孫に聞かせるようなことでもないので)たった一度だけ、祖父が叔母のために流した涙を今も忘れられないでいる。わたしが十七歳を迎えたその日、祖父がわたしの顔を見て「もう十七歳になったんか」と言って泣いた。そのときわたしは、ああじいちゃんは二回娘を亡くしたんだと思った。一度めは脳出血によって、二度めは生きている孫によって。
 悲しいやら苦しいやらで何も言えなかったけれど、それを見ていた母がこっそりと「やっとやね」と言ってあからさまにほっとしていた。母にとっては娘は娘で、けして叔母の代わりではないのだ。遺影の叔母と比べられるたび、困ったような、苦虫を噛み潰したような顔で曖昧に笑う母のことも、わたしは知っていた。

 叔母が入院してから亡くなるまでのひと月のあいだ、祖父はずっと病院に通いつめて身の回りの世話をしたそうだ。
 お嬢様育ちで奔放だった祖母にふりまわされたのかもしれないし、妾の子であるがゆえに手本になるべき父親像を持たなかったのかもしれない。何にせよネグレクトが許されるわけではないけれど、祖父はずっと叔母に対して後悔の念を抱えて生きていたのだろう。

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 大学進学の前に納戸を片付けていたとき、奥のほうにしまいこまれた叔母の学用品を見つけた。どうやら処分できないでそのままにしておいたらしかった。
 もっとも間隔の狭いタイプの罫線に沿って、2Hの鉛筆で几帳面に綴られた大学ノート。小さくかっちりとしたかたちの字。親戚が異口同音に「まじめな子だった」という理由がわかった気がした。
 じいちゃん、わたしは全然叔母さんに似ていない。わたしは筆圧が弱くてHBでもまだ薄いくらいだし、大学ノートは罫線を無視して適当に書くし、落書きと先生の呟きのメモでしっちゃかめっちゃかだ。髪は染めるし制服は着崩すし遅刻はするし、きっとわたしは少しも叔母には似ていなかった。
 それをわかっていてなお、孫に娘の面影を探さざるをえなかったのかと思うと、今でも胸を絞られるような心地がする。十七を過ぎると、嘘のように誰もわたしと叔母を比べなくなったし、重ねなくなった。なんだか強制的に持たされていた荷物のようなものが消えて身軽になった。別に誰を恨んでいるわけでも、憎んでいるわけでもないけれど、ただ単純に重荷ではあったんだなと思う。

 何か大切なもの、それこそ自分の一部になっているようなもの、それを失くしながら生きていかなければならないとき、代替品もなくひとり痛みを抱えていくのは、耐えがたい孤独と向き合うことなんじゃないかと思ったりもする。誰かと痛みを分かち合う器用さを持ち合わせない人間ならなおさら。
 わたしはある意味ではその代替品だったけれど、だからこそ母が嫌悪を必死に堪えていたけれど、でも、もういいかなと思う。わたしは結局わたしでしかなかったし、重荷ではあったけれど傷ついてはいない。あるいは傷は知らない間にかさぶたで覆われ、それもとうに剥がれ落ちた。

 実家では今でも月参りがあるが、祖父はもうおらず、長年お世話になったご住職はご子息に代替りされた。近いうちに父母もそこを出て、終の住処を探すと言う。
 忌明けの五十周忌が数年後にある。気の遠くなるほどの長い時間をかけて、いろいろな傷が風化していった。

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