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おうちのさいご、を観て。

知り合いの実家が最期になるから見てってください、という情報だけを聞き録画された映像を見た。思い出が詰まった家の最期なんて考えたくないけど、いつかやってくる。
私は最期の足音が聞こえつつある実家の現実を直視したくないけど、看取る運命にある。

他人の家のことを見ていいのだろうかという罪悪感とともに見ていた。
全然知らない家なのに、冷蔵庫に残ったものや部屋に置いてある、空っぽの鳥籠に生活感があって怖かった。

この怖さは、2014年に訪れた、震災で被害を受けた南三陸町を訪れた時に抱いた感覚と同じだった。
小学校の土砂にまみれた教材や掃除道具。
家も、道もあったと思えない更地。
隣の家の人を引きずってでも逃げればよかったと嘆いていたおばあさん。




人のコダマが聞こえた気がした。

実家の最期をなぜ人に見せようと思えたのか、理由は想像するしかないんだけど『覚えていてほしい』『覚えていたい』があったんじゃないか。




思い出は思い出すから思い出になる、とどこかで聞いた。
もう思い出せないものは思い出と言いようがない。

もし自分の家だったら、何を想うだろう。
もうすでに使っていない部屋、小学生から溜めていた教科書たちを捨てた、空っぽの物置。
人がいる場所といない場所は決定的に何かが違う。
いない場所には何かが、じっと息を潜めている気がする。(子どもの頃から思っていたこと。だから怖くて走って素通りしていた)
帰省した時は、すでに空白がある部屋を見ないようにしている。

でも、ひょっとしたら...。
映像の中の彼は悼んでいるように見えた。

先日、『悼む人』という本を読んだ影響もあり、今度帰ったら無くなったものや人を悼もうと思う。

アーカイブは誰でも見れます、が廃墟などを見るのが苦しい方は見ない方がいいです。
ところで裏ってなんだろう。

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