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あの駅で。

僕は懐かしい駅に来ていた。最後にここに来たのは10年以上前だ。またあのおばちゃんに会えるだろうか、と来てみたら売店ごとなくなっていた。

別れはあっという間だな、となぜか、ふっと笑ってしまった。

売店のあった場所は他の地面と比べて少し黒くなっていた。僕はそこに立ってみた。おばちゃんは何を考えていたんだろう。

あの頃の僕を、どう見ていたんだろう。上を見上げる。


古びたホームの屋根が見えるだけだ。売店の天井は手が届くくらい低かったはず。

僕は目をつぶってぐるり、とゆっくりまわってみた。


生暖かい風が吹く。


ここは、会社に行けなくなっていた僕の唯一の居場所だった。
おばちゃんは理由を聞かず、自分の昔の話や同級生の男の子の話をしてくれた。
きっと最初からわかってたはずなのに。
初めて会ったときは万引きに間違えられそうになったっけ。

1万円は嫌われる、とか言ってたな。

ホームにあった自動販売機でアイスを買い、ベンチに腰を下ろす。
おばちゃんが学生の頃から使っていた駅。
大切な人との思いでがつまったこの場所を、どんな想いで離れたのだろう。


「だって、仕方ないじゃない」

明るく笑う声が聞こえてきそうだ。ふと、ホームを掃除している駅員さんに目がいった。
普段知らない人に話しかけることなんかないけれど、なぜかおばちゃんについて無性に知りたくなった。

ダメもとで聞いてみよう。

「ここで働いてた売店の方、知りませんか」

人当たりがよさそうな初老の駅員さんは少し考えて「あぁ、田中さんね。あの人なら劇場に行くっていってたよ」と親切に教えてくれた。

「え、劇場!?」突拍子もない単語に面食らってしまった。

「そうそう、今度は劇場の売店で働くんだってさ。昔の知り合いに声かけられたとかで」

てっきり病気とかでもう会えないと覚悟をしていただけに、さらに驚いた。

「え、いつ頃ここを離れたんですか?」

「数年前だったかな。私が来たあとだったから。あの人、人気だったんだねえ。たくさんお別れ言いに来る人がいて、ホームレスみたいな人もいたよ。すごいねえ、人徳がある人だったんだね」

教えてくれた駅員さんに劇場の場所と丁寧にお礼をいい、僕は駅を離れた。

教えてもらった劇場は僕の知っている街だったが、演劇に興味がないので行こうと思ったこともなかった。
勝手に入っていいのかわからず、入口に書いてあるポスターを見る。
ちょうどもうすぐ終わる時間だった。お客さんに紛れて中に入ろう、と外で待っていた。
しばらくして劇場の扉が開いた。たくさんのお客さんが出てきた。中を覗くと意外とまだお客さんが残っていた。見回すと、右手奥のほうから懐かしい声が聞こえた。

「はいはい、おかわりはもうお持ち帰りね、ごみは途中で捨てちゃだめよ。」

よく通る声が響いていた。顔なじみのお客さんも多いらしく「お金ちょうど、ここ置いとくね」「いつものある?」と言った常連らしい会話が聞こえる。

僕はしばらく遠くで様子を見ることにした。
ロビーにはグッズを買う人が列を作っている。特に興味もなかったがなんとなく眺めていた。

しばらくすると場内が落ち着きはじめた。売店から「じゃあね、田中さん、先帰るわね」と声が聞こえておばちゃんがもう一人出てきた。

あのおばちゃんと同じ苗字なのか、と僕は思わず笑ってしまった。

僕が会釈すると「急いだほうがいいわよ、もうすぐ閉まるから」といそいそと帰っていった。


そいて、あの、見慣れた白髪で少しだけ腰が曲がったおばちゃんが売店から出てきた。

「・・・すみません」 

なんと言っていいかわからず、いろいろ考えたけどありきたりな一言しか出てこなかった。


「ごめんねぇ、も今日は終わりなのよぉ、大変で。」

おばちゃんが言いながら振り返った。


僕の記憶のおばちゃんと少しも変わっていなかった。

佐藤健が好きで、ちょっと図々しくて、言い間違いが面白くて、大切な人の手紙をエプロンのポケットに入れている人。
ずっと言いたかった。でも、また言うのは早いと思って再会するのが怖かった。
こんな僕を、会社に行けずに電車を逃してしまった僕を、何も言わずに話を聞いてくれたおばちゃん。

僕はずっと言いたかったんだ。僕は、僕は・・・。


「あら」少し驚いておばちゃんは言った。




「なんで泣いてるの」


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