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一生一品 vol.6 野﨑 洋光 さん

文・撮影/長尾謙一 (素材のちから第38号より)

【Chef's Profile】
野﨑 洋光 さん 分とく山
1953年、福島県石川郡古殿町出身。武蔵野栄養専門学校卒業後、東京グランドホテル、八芳園を経て「とく山」の料理長に。1989年に「分とく山」を開店し総料理長になってからは、伝統や慣習にとらわれることなく本当においしいものを見極め続け、素材選びや調理法に独創的な提案をして日本料理界に新風を吹き込んだ。静かなやさしさを湛える丁寧な料理でお客様を大切にもてなす。

野﨑総料理長が選んだ一皿には、どんな想いが込められているのでしょう

人生の中で一品だけ料理を選んでご紹介いただくこの企画、野﨑さんはシンプルに「ご飯」を選びました。

なぜ、「ご飯」なのでしょうか。お話を伺うとそこには故郷に寄せる強い想いと、自らの力で積み重ねてきた料理人としての慎ましい誇りがありました。

「ご飯」
土鍋で炊いた「ご飯」の提供は30年前に分とく山が始めた。15席の店に3口しか火口がなかったために、強火で吹きこぼれたら、あとは魚焼き器に入れて炊き上げたと聞く。一人一人に炊き立てを出したかったからだ。

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姉の病気を食事療法で治したいという想い

野﨑さんは福島県の田舎で育ちます。ご実家は曾祖母の代までが一緒に暮らす大きな家だったそうです。家の仕事を手伝い、そして勉強するのが子供の義務として厳しく教育されました。しかし、年齢的に反抗期を迎えた高校1年生の時、「そんなのやってられるかよっ。」と東京へ家出してしまうのです。

母親が倒れたから帰れということで連れ戻されますが、それからの高校生活は、タバコを吸ったり酒を飲んだり、友達とバイクに乗ったり好き放題で、将来のことなど何も考えてはいなかったとおっしゃいます。

ところが野﨑さんにはお姉様がいました。とても優しい方でしたが腎臓を患っていました。そこで何とか姉を食事療法で治してあげたいと思った野﨑さんは、栄養学を学ぶために専門学校へ行きたいと思います。しかし、散々ご両親に対して突っ張ってきましたから「姉を治してあげたい。」という優しい気持ちがあっても、その通り素直に言えませんでした。

野﨑さんの気持ちを知らないご両親は「今まで遊んでばかりで、好き放題にやんちゃしておいて、突然何を言ってるんだ。」と反対します。結局、祖父の「行きたいのなら行かせてやれ。」という一声で進路が決まりますが、姉を想う優しい心は誰にも明かさずに上京したのです。

専門学校へ入学した野﨑さんには、お姉様の病気を治すという目標以外に、もう一つやりたいことがありました。それはボクシングです。野﨑さんはそれほど身体が大きい方ではありませんが、喧嘩は強かったそうです。

それでもボクシング経験のある人と喧嘩をすると、パンチを避けて相手にくっついて戦うしかなく、負けはしなかったようですがかなり苦戦したようです。そんなことからボクシングジムに通い高校時代の不完全燃焼を一気に爆発させます。

そして、東京都民体育大会の社会人アマチュアの部で決勝まで行くことになります。物事を極めなくては気が済まない性格は、こんなところにも表れています。

こうして栄養学の勉強とボクシングに熱中しますが、入学して1年後にお姉様が他界してしまいます。姉の病気を治すという大きな目標をなくしてしまった野﨑さんにとって就職のことなど頭にありませんでしたが、それを見かねた先生が知人を通して就職先を見つけてくれます。

こうして吉祥寺にある〝かに御殿〟という大衆割烹店で野﨑さんの料理人としての第一歩が始まったのです。

「物事を極めたい」という気持ちが、一気に料理へと向かっていった。

昭和47年 ボクシングで東京都民体育大会の決勝へ
昭和48年 はじめて板前に(吉祥寺・かに御殿)
28歳「とく山」に入った頃

料理人としての仕事の仕方、態度、言葉使いを覚えた

しかし、仕事はとても辛かったようです。朝9時に入って夜中の3時くらいまで働く過酷さに、あとから入店してくる人は皆逃げ出しました。

しかし、野﨑さんは逃げませんでした。ご両親に対しての意地です。まだ突っ張っていたのでしょう。「根性なしだから辞めるんだ。どうしてそういう流れ者のような職業に就くんだ。」と叱られるのは目に見えていたのです。

そして6か月後に荻窪の店へ移動になりますが、その店で菊池貞一という料理人から学んだ時間が、その後の野﨑さんの料理人としてのスタイルをつくります。

菊池氏はとても厳しい人で皆きつすぎると言いましたが、私にとっては最高の師匠だったと野﨑さんは当時を振り返ります。「やったことがあるのと、できるのとは違うからな。」と客席に聞こえるくらい何度も怒鳴られ、二言目には「仕事しなくていいから邪魔するな。」と怒られました。

ちょっとくらいできても図に乗ってはいけないんだ。偉そうにしてはダメなんだ、謙虚になれ。そうやって仕事の仕方、態度、言葉使いを覚えさせてもらったそうです。特に調理場を常に整えることの大切さをここで身につけました。

〝金儲け〟ではなく〝人儲け〟

野﨑さんはお父様から、お金を儲けることよりも、お金を使わないことを覚えなさいと言われたそうです。お金を儲けなくても人を裏切りさえしなければ必ず商売はやっていける。だからお客様を心から大切にしなさいと。

分とく山は誰もが知る名店になりました。長く贔屓にしてくださるお客様もたくさんいます。お客様からは「野﨑さんは昔から変わらないな。」とよく言われるそうですが、野﨑さんはそんなお客様の声に誇りを感じます。分とく山はお客様にずっと可愛がってもらって今のようになりました。

おいしい料理を提供することはもちろんですが、分とく山にはお客様と気持ちを繋ぎ合わせてきた時間があります。それはお店の歴史であって、どこか根っこの部分でお客様と繋がっているんだと感じることができるのは、料理人冥利に尽きるでしょう。

土鍋で炊いた「ご飯」という素朴なメニューからは、そんな野﨑さんの慎ましい誇りが感じられます。「私は金儲けが下手ですが、店としては何とか利益を出しながら人を儲けることにしたのです。」と野﨑さんはおっしゃいます。

一生一品に選んでくださった「ご飯」を私たちスタッフにふるまうために、福島県特産のエゴマを炒ってエゴマ味噌をつくってくださいました。

エゴマ味噌たっぷりの「ご飯」
丁寧にすり鉢をあたる

丁寧にすり鉢をあたる野﨑さんを見て、「ご飯」は故郷であり、エゴマは野﨑さんの長く重ねてきた時間のような気がしました。

※この記事は2020年2月に取材したものです。


(2020年8月31日発行「素材のちから」第38号掲載記事)

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