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一生一品 vol.7 片岡 護 さん

文・撮影/長尾謙一 (素材のちから第39号より)

【Chef's Profile】
片岡 護 さん アルポルト
1948年、東京の上大崎に生まれる。1968年、ミラノ総領事館の料理長としてイタリアのミラノに渡る。5年間の修業の後に帰国。東京・代官山「小川軒」で修業した後、再びイタリアへ。1976年、東京・南麻布「マリーエ」の料理長として迎えられ、1983年、「アルポルト」をオープンさせる。イタリア料理ブームの火付け役として知られる。

片岡シェフが選んだ一皿には、どんな想いが込められているのでしょう

今回の「一生一品」、片岡シェフは「カルボナーラ」を紹介してくださいました。

この「カルボナーラ」には、片岡シェフのどんな物語が隠れているのでしょう。

「カルボナーラ」
当時の日本にパンチェッタはないため、代わりにベーコンを使った。パルメザンチーズもなくエダムチーズを半分に切って開き、乾燥させて削ってパルメザンチーズの代用にしていた。イタリアのカルボナーラとは少し違っていたが、金倉の奥様がつくってくれたカルボナーラのおいしさは、片岡少年の心を強く惹いた。

人生を決めたミラノ行き

片岡シェフは4人兄弟の末っ子として生まれます。早くにお父様を亡くされ、お母様は4人の子供を育てるために金倉さんという外交官のお宅で手伝いをはじめます。小学生だった片岡シェフは、家に帰っても一人で兄弟の帰りを待つのが寂しくて、よく金倉家へ寄り道しました。そんなシェフを金倉の奥様は美術館や音楽会、高級レストランにまで連れて行ってくれて、とてもかわいがってくれたそうです。

シェフが中学から高校に上がる頃のある日、金倉の奥様がつくったカルボナーラをお母様が家にいただいて帰り、それをおやつに取っておいてくれました。

生まれて初めて食べるカルボナーラは冷めていましたが、凄くおいしくてイタリア料理への好奇心を掻き立てました。それをキュウリとナスのお新香と一緒に食べたのを、今でも強烈に覚えているそうです。これがシェフとイタリア料理との初めての接点でした。

やがて高校生になったシェフはデザインや絵画に興味を持つようになり、芸術大学のデザイン科を受験します。しかし2連敗。そして3度目に挑戦する頃、メキシコからミラノ総領事として赴任するために一時帰国していた金倉家のご主人が、「片岡くん、今度落ちたらコックになってイタリアに行かないか?」とシェフを誘います。もちろん金倉さんは冗談だったと思いますが、シェフもこれに「今度ダメだったらお供させていただきます。」と冗談で返したそうです。

しかし、冗談は冗談でなくなります。シェフは3度目も見事に落ちてしまうのです。こうなったら3浪してもう一度挑戦だと思ったのですが、金倉さんの冗談を真に受けてコックになってみようかと真剣に悩みはじめました。

いろいろな人に相談したそうです。受験のために通っていた予備校の先生に「先生、コックになってミラノへ行く話があるんですけど、どうしたらいいでしょうか。」と相談したら、「片岡くん簡単だよ。料理もデザインも同じだよ。要するにデザインはキャンバスの上にデザインする、料理は皿の上にデザインすればいいんだよ。」と言われて、そうか、じゃあ筆を包丁に持ちかえればいいんだと思い、早速、金倉さんの家に行って、「僕、もうコックになります。」と伝えたのです。

冗談のつもりで誘ったご主人はシェフの顔を穴があくほど見つめていたそうです。それでも金倉さんは何も言わずにシェフをミラノへ連れて行きました。

ところで、総領事館のコックは日本料理をつくれなければなりません。日本料理は食べたことはあっても、一度もつくったことがなかったシェフは、ミラノへ行く前に日本料理の研修で、当時「つきぢ田村」の当主だった田村平治氏のもとへ通います。修業ではなく研修です。

包丁でひたすら刻むだけの毎日を送り3か月後、田村氏から直々にいただいた日本料理の本と料理辞典をカバンに詰めてイタリアへ渡ります。

「筆を包丁に持ちかえ、キャンバスを皿にかえて料理を描く。」

高校生の頃
ミラノ総領事館で刺身をひく
金倉さんご夫婦と公邸で

総領事館は毎日が戦場

ミラノ総領事館では毎日、金倉さんのご夫婦がお師匠さんのようなものでした。朝はパンで昼はイタリア料理、夜は和食、これを毎日毎日、ああじゃないこうじゃないと言われてつくるわけです。

基本的には総領事の食事をつくるのが仕事なのですが、それだけではありません。公邸に政治家や皇太子がお見えになるとお食事をされますから、そのための料理もつくるのです。

さらに、イタリアにいる日本政府や日本企業の要人を公邸にお招きしてパーティーも開きます。正月などは何百人もの招待客が来ますので、金倉の奥様やお手伝いしてくれる人もいましたがミラノ総領事館付きのコックは片岡シェフ一人、それはそれは毎日が戦場でした。それでも最後まで素人が料理をつくっているとは絶対にバレなかったそうです。きっと料理の修得が早かったのでしょう。

結局、シェフはミラノで5年間過ごすことになりますが、その間もらった給料はすべて食べることに使います。イタリア国内はもちろん、休暇にはフランスやスペイン、スイスへ出かけ、数え切れないほどの店を食べ歩きました。料理の味はもちろん、盛り付けや出すタイミング、器や店の雰囲気、サービスなどを自分の感性で学び取り、吸収していったのです。

〝イタリア小皿料理〟を確立させる

ミラノから帰国したシェフは代官山の「小川軒」で2年間修業し、28歳で今度は料理人として再びイタリアへ渡ります。そして、いろいろな店をまわり、研修を重ねながら自分の料理スタイルを組み立てていきました。そしてつくりあげたスタイルが〝イタリア小皿料理〟だったのです。

〝イタリア懐石料理〟とも言われたこのスタイルは、最初は異端と批判されましたが、季節感とともに五味五感を取り入れた日本人にしかできないイタリア料理は、たくさんの人に受け入れられ一世を風靡します。料理長として迎えられた南麻布の「マリーエ」は6年間、毎日満席を続けたほどでした。そして、34歳の時に「アルポルト」を開店させるのです。

イタリア料理ブームの火付け役とも言われる片岡シェフですが、「驕った心でつくる料理には自ずと限界がある。」と若い頃の好奇心を忘れません。

思い出のカルボナーラはパンチェッタではなくベーコン
片岡シェフの原点

きっとこの〝カルボナーラ〟はご自分の原点を忘れないための大切な思い出なのでしょう。ご馳走様でした。

※この記事は2020年9月に取材したものです。


(2020年11月30日発行「素材のちから」第39号掲載記事)

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