脳内が透明になる瞬間

本当に意味が分からないんですが私の通っていた中学校にはフルマラソン(42.195km)を全校生徒が走るマラソン大会がありました。
小学校から上がったばかりの1年生も運動部でも無い生徒も漏れなく全員参加。
当たり前ですがめっっちゃめちゃキツいです。
中学1年生の時は、当時から吹奏楽部で当然42kmなんて走ったことなかったのでどんなに辛いものかわからず、ノリで完走し翌日全身筋肉痛で歩けなくなりました。
なぜか全校女子で9位という奇跡も起きた。
2年生の時は道中で嘔吐してゴールしました、次の日は高熱が出た(本当の話です)
3年生になるとどれほど辛い行事か知っているので1番泣きそうになる。

そんな辛い行事ですが私は嫌いになれませんでした、むしろ好きだったと思います。
私は運動神経が本当に悪く、特に球技は真剣にやっているのに周りから笑いがとれるレベル。
ですが長距離走だけは唯一得意でした。
得意というか、気力でなんとかなるから好きでした。笑

走り始めは色々なことを考えます。
ここからあと何時間私は走るんだろうとか、周りにいる友達や先輩後輩、休憩所で準備している先生や保護者の方々、通り過ぎていく景色や道の様子のことを考えたり。
頭の中で何か曲が永遠にリピートされていたり、本当にどうでもいいこと、例えば不審者が出た時の対応方とか戦い方とか(なぜか自分が戦う妄想が多かった)を考えて気を紛らわせたり。

それが段々何も考えられなくなります。
本当に息が上がってきて、地面を蹴るのが辛くなってきて、目線を動かすことすら疲れの一因になるところまで走り続けると、本当に頭が空っぽになるのです。
頭の中が透明になっていく感覚。
あの瞬間が好きでした。
私は中学生の頃から音楽のない空間というのがとにかく無理でした。
常に何か曲を聴いていたり頭の中で再生させていないと気が済まない、だけどあの頭の中が透明になって何も考えられない時は平気でした。
あの瞬間ほど音をクリアな感覚で聞ける時というのは中々無いと思います。
走る自分の呼吸音、足音、風を切る音、車の音、草木が揺れる音。
何気ない音が、音楽を聴いている時と同じくらいの情報量になるのが新鮮で好きでした。

図書館にいる時も同じような感覚になります。
私的には図書館にいる時は、そこで本を読んでいる瞬間よりどの本を借りて行こうか棚を見回して選んでいる瞬間が好きです。
文字による思考・物語に囲まれていると、その情報量の多さに自分の思考がとても静かになるような気がします。
音楽を聴きながら選ぶのも何か違う気がしてくる。
そんな静かでクリアな頭で選んだ本が読み古されてボロボロだったり、表紙のデザインがとても私好みだったりした時、なんだか愛おしい気持ちになったりします。

物理的に静かな空間と頭の中が静かな時というのは全然違います。
身体的に極限状態だったり、圧倒的に情報量が多い時に起こる感覚。
実はこれライブやコンサートでも時々起こるんじゃないでしょうか。

爆音で聴くバンドのライブも、オーケストラや吹奏楽によるコンサートも、本当に感動する時は情報量が多くて頭の中は空っぽな時が多い気がします。
「情報量が多い」というのは音の数が多い時だけではないです。
楽器や歌声のソロでもその1音に込められた音色や感情の情報量がすごい時は感動する。

コロナ禍の今の状況になってから、そうした頭の中が透明になる時が減ったなーと感じます。
配信ライブも楽しくて新たな発見があって、見る側としても手軽に見れるという利点も感じておりますが、やはりお客様を目の前にするのが1番。
演奏するその場の空気も雰囲気も感じたいし、演奏する側としてはトロンボーンの音圧まで届けたい。
早くそういうライブに行きたいしそういう風になってもらえるライブがしたいなーと思う今日この頃です。

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