【短編】体温と心

「手が冷たい人は心が暖かい」
この言葉が嫌いだった頃の話。
冷えた手に思わず触れられてしまった時、フォローするように、あるいは軽い皮肉の様に使われるこの言葉が嫌いだった。
一般的には、気まずさや悪意を含めて使う言葉ではないだろう。
だからそう聞こえるのは、私のせい。
本当に嫌いなのは自分の冷たくて醜い手だ。
本当に嫌いなのは自分自身だ。
この言葉を聞いた時、悪意や気まずさの象徴のように受け取ってしまう自分自身。

冷えて赤切れた手をペーパータオルでそっと拭く。
慎重に触れても、カサカサしたペーパータオルの感触にピリッと痛みが走った。
冷水に晒し続けて動きが鈍った手を握り直しながら顔を上げると、キッチンの奥で料理するオーナーと調度目が合った。
小さく頷いて私に合図する目尻には皺が寄って、いつも以上に優しげな表情になる。
柔和な表情とは裏腹に、フライパンを扱う手元は何度見ても惚れ惚れする素早さと鮮やかさ。
時刻は十九時。
混雑してきたディナータイム。
忙しなくそれぞれの仕事をするキッチンスタッフをすり抜けて、誰にも気付かれることなく私は裏口に回った。
…いや、気付かれなかったのか。気付かれないフリをされたのか。
裏口から正面の階段へ。
私の働くレストランの入り口には、四、五段の階段がある。
段差はそれ程高くはないし、階段の幅も狭くはない。
加えて階段の先にあるのは、数々の雑誌やテレビから取材される有名レストラン。
そんなレストランに入るまでの階段と考えたら、益々大したことない階段に思える。
私にとってはずっと憧れていた場所の入り口だ。
料理人になることを決意したのは、この店の料理を食べてからだった。
そのくせ、店が混み始めた肝心な時にキッチンに立てない情けない私は、最近この時間にある方を出迎える。

十数メートル先に小さなその姿が見えた。
その瞬間惨めな気持ちがふわりと軽くなって、すぐに駆け寄った。
「こんばんは。」
声をかけると止まる杖の音。ゆっくりと私を見上げる、老境を迎えた皺のある顔。
「こんばんは。
気を遣わせて悪いわねぇ、走ってきてくれたんでしょう。」
落ち着いた話し方と声色。
七十代には見えない整った服装と髪。
若い頃から上品な方だったことがすぐに見て取れる。
にっこりと笑う目尻には更に皺が寄った。
あぁ、オーナーはこの目尻を受け継いだんだと思って少しほっこりした。
「いいえ、私が早くお会いしたかったんです。」
お迎えの相手、オーナーのお母様である咲子さんの歩調に合わせて、私はゆっくり隣を歩き始めた。
咲子さんは足を悪くしていた。
最近歩行のリハビリで近くの病院に通うようになり、息子であるオーナーのレストランで食事をしていくことになっていた。
店の入り口を二人で目指す道のりはあまりにもゆったりとしていて、さっきまでいたキッチンの騒音とのギャップで非現実的なようにも感じる。
咲子さんの隣はとっても心地良いものだった。
この時間に店にいないのは情けないことだけど、咲子さんと歩くこの時間は好き。
「今日のリハビリはどうでしたか?」
「良い調子。少し前まではお店の階段の前までタクシーを寄せて頂いていたのにね、今はこうして一人で歩いてお店に迎えるようにようになったわ。
しかもね、私、実は毎日リハビリで歩く距離を伸ばしているのよ。」
ふふふ、と笑う顔に重なる皺が笑顔を強調して、思わず私までにっこりとしてしまった。
「順調そうで良かったです。」
そう顔を合わせた時、ふと咲子さんが私のエプロンに目を向けた。
「あら、今日のディナーはトマト料理?」
目線を追うと、私の白いエプロンには赤く滲んだシミと張り付いたトマトのヘタ。
恥ずかしくなって慌てて叩いた。
「あ、すみません。直前まで下準備をしていて。」
「…私のお出迎えはいつも貴女が出てきてくれるのね。忙しい時間帯に手間じゃない?」
「いえ、大丈夫です。私、大した仕事できないから…」
自分の言葉のくせに、それは自分の胸に刺さった。思わず俯いた。
「あら、そんな謙遜なさらないで。」
そう気遣ってくれた咲子さんには悪いけど、本当のことだから。
こうして私がお出迎えの役割を任命されたのも、それが理由なのだから
俯いて歩いていたら、もう店の階段の目の前まで来ていた。
「咲子さん、どうぞ。」
私は手を差し伸べた。
咲子さんはリハビリで歩けるようになったと言えども、階段だけは一人で登るのは難しいので支えが要る。
お出迎えは、この階段ゆえに必要な役割だった。

咲子さんは、私の手に触れる時とても気を遣っている。
荒れた手のどこに触れたら痛くないか、ゆっくり確かめるように手を重ねてくれる。
そんな優しさが、ありがたくて申し訳なくて情けない。
レストランにはホールのスタッフもいる。
普通に考えたら、入り口に向かいやすいホールスタッフが咲子さんのお出迎えをするはずだ。
だけどオーナーは、わざわざキッチンスタッフの私にお願いした。
いまだ一品も料理を出せない、私にお願いした。
「君に行って貰いたい理由があるんだ、母と会えば分かるから。」
優しいオーナーはそう言っていたけど、分かっている。
決して咲子さんを出迎えることが雑用だと言いたい訳ではないが、忙しいディナータイムにいなくても困らないのは、私だけだということ。
一緒に働き始めた同期は、今頃私の憧れていたキッチンで料理している。
私だけが下準備しかできない。
皿洗いしかできない。
だからこの手も、いつも冷たいのだ。醜いのだ。
この手が嫌いだ。
目に見える、料理人に向いてない証。
負の感情が、今日やってしまった仕事のミスを思い出させる。
キッチンスタッフの哀れむような呆れるような励ましと目線を思い出す。
こんな手が嫌いだ。
こんな自分が嫌いだ。
こんな気持ちになるこの店だって———

「出世する手ね。」
ぽつりと呟いた咲子さんの言葉に、つい支えながら登っていた足が止まった。
疑問符を浮かべて咲子さんの顔を見ると、オーナーを思い起こすような柔和な表情をしていた。
「手が冷たいから。働き者の証拠。」
そう、微笑んだ。
胸が詰まった。
大人気なく声を上げて泣き出したい衝動に駆られた。
滲みかけた涙を押し込むのに必死な私は、ありがとうございます、の言葉を絞り出すことしか出来なかった。

この手に関して、なにかを言われることが嫌だった。
「手が冷たいから心が温かいのかもね」
なんて言われるのは特に嫌いだ。
だって私は手だけじゃなくて、心だって醜くて冷たいんだから。
そんなフォローいらないよ、そんな皮肉やめてよって考えてしまうこの心が温かい訳がない。
言われる度罪悪感と情けなさに苛まれるこの言葉も、この手も、私も、嫌い。
だけど。
この手から努力を読み取ってくれた。
料理人に向いてない証だと思っていたこの手に、初めて誇りを持てた。
冷えた醜い手に、咲子さんの体温がじんわりと伝わる。
きっとあの瞬間に伝わったのは、体温だけじゃなかった。
皺の入った小さな手は、体温以上のものを私に与えてくれた。

それから数年。
変わらず私は、オーナーのレストランにいる。
ディナータイムは相変わらず混雑していて、頭をフル回転させないと料理の提供が間に合わないくらい。
ふと顔を上げると、時刻は十九時。
隣で作業していたオーナーとすぐに目があった。
「今日はお願いするよ。」
そう笑う目尻に皺が寄っている。
この数年でその皺が少し深くなってきて、似てきているんだとやはりほっこりする。
手元の料理を完成させて、後輩に指示を送りながら忙しないキッチンの裏口へ進む。
裏口から入り口へ。
数年前に、階段はバリアフリーでスロープに変わった。
それでも、今でもこの時間は親孝行なオーナーが、時には私が、お出迎えに向かう。
今日が私の番なのには理由があった。
今日のディナーは、初めて私の考えた新メニューだから。

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