盲目的な恋であって欲しかった



片思いが楽しいと思えるのは、盲目的な恋をしている人間だけだ。



人の熱気で温度の上がった貸し切りレストランで、ぼんやりと手にしたグラスを回す。
背中に触れる壁はひんやりとしていて、アルコールの入った体に心地良い。
視界が少しぼやけて見えるのは酒に酔っているからだろうか。
それとも、同窓会というこの場の空気に酔っているからだろうか。
出席率の良い高校の同窓会は、やはり仲の良いクラスだったからか、体感する空気感は高校時代のままだった。
立席パーティー形の会場がより一層懐かしみを感じさせる。
教室の無機質な机を挟んで、大人しく座ることなんてできずに繰り広げられていた会話が、10年の時を経て目前にある。

「麗華、大丈夫?酔っちゃった?」
するっと私の隣に並んできたのは、当時から親友の美希だった。
メイクをしても髪色が変わってもあの頃と変わらない気遣いが嬉しくて微笑んだ。
「大丈夫だよ、ありがとう。
ごめんね、ゆーきくんと話してるとこだったでしょ?」
美希は手にしていたグラスのワインを呑みながら、見てたの?と気まずそうな顔をした。
「10年振りの元彼はどう?」
笑ってそう尋ねながら、男女が入り交じったグループに目を向ける。
その真ん中で赤い顔をして笑っているゆーきくんは、当時何度も美希からの恋愛相談で聞かされた名前だった。
同じように美希もぼんやりと彼に目を向ける。
「なーんか大人になったなぁって思ったよね。
…あ、私がね。
あんなに好きだったし別れてからも引きずってたのに、こんなに何とも思わず普通に話せちゃうんだなぁって。
私大人になったなー、変わったなーって思ったよ。」
遠目に彼を見ながらそう話す美希の横顔がとっても綺麗だった。
相変わらずの童顔で、10年経った今でも妹のような立ち位置は変わらないのに、綺麗だと思った。
「自分の成長だけ?彼についての感想は?」
今度はくしゃっと笑う。
その無邪気さも、あの頃のままなのにどこか違う大人びたニュアンスを含んでいた。
「なんにもない。
なんか私、恋に恋してたのかもしれない。
彼ね、結婚して今はお父さんなんだって。
それ聞いたらさ、ただただ幸せそうで良かったって思ったよ。」

他のグループに呼ばれて美希が隣から居なくなった後、私は同級生達の間をすり抜けて出口へ向かう。
重く大きい扉を押し開けながら、バックの中を探り四角い箱を手にする。
外から流れ込む空気はレストランの壁同様にひやりと澄んでいて、混濁した室内の空気から出た開放感で思わずため息が出た。
私だけがあの懐かしさで溢れる空気に同化できない感情が、ため息で浮き彫りになった。

「恋に恋する」
素敵な言葉だ。
相手が見えなくなるほど恋に夢中になるのは、恋愛としては失敗の形だけど、悪いことではないと私は思う。
お酒みたいなものだ。
一生仕事にもプライベートにも付き合い続ける飲み物なら、一度大失敗するくらいがちょうど良い。
何にでも共通すると思う。
一度大失敗を経験した人間は次に進む方法を学び、成長できる。

自分のヒールがアスファルトを叩く音だけが響く。
タバコを1本取りだしながら、今度はカバンからライターを探す。
喫煙所が遠いからか、外だからか、今日の会場でタバコの為に席を立つ同級生はいなかった。
同級生、は。


恋に恋するのは、楽しいと思う。
それが良いかどうかは別として。
当時の美希を見ていればそれは分かった。
片思いの期間さえも楽しそうな美希を見ていればそれはわかる。

たどり着いた喫煙所は、小さな灰皿とベンチがあるだけの簡素なスペース。
先客がいるのは分かっていた。
その姿まで想像しながら歩いて来たのに、目にした瞬間泣きたい程心臓が跳ねた。
「誰もタバコ吸わない良い子なクラスだと思ったら、まさか松田が不良生徒だったなんてな。」
そう驚きながら笑う先生の顔で泣きそうになる。
跳ね続ける心臓が不快で嫌だ。
もうやめたい。
心から思った。

私達の担任をしていた時、先生はまだ26だった。
比較的年が近い爽やかな体育の先生、学生にモテない訳がない。
同じクラスに、先生のことが好きだと公言している子がいた。
公言していない子はもっといるだろう。
それでも今日あの場にいる誰もが、「懐かしい恩師」に会えた喜びだけを抱いている。
だってみんな大人になったんだから。
ただ一人を除いて。
私一人を、除いて。

座っていいよ、と先生はくたびれたジャケットをよけてベンチの隣を空けてくれる。
座り方を忘れそうなほど緊張している自分が嫌になる。
平静を保ったフリして持つライターが震えていて本当に嫌になる、情けない。

このタバコが、今日のために2週間前に買ったものだと知ったら先生はどんな顔をするだろうか。
「麗華、可愛くなったね」と元同級生達が褒めてくれた髪もメイクもワンピースも、全てあなたのためだと知ったら、あなたはどう思うだろうか。

恋に恋したかった。
美希みたいな恋愛がしたかった。
ゆーきくんの行動に言葉に、一喜一憂する美希が可愛かった。
別れてからメソメソと落ち込み、中々立ち直れないでいた弱々しさも愛おしかった。
10年経って、そんな彼に友達として幸せを願う姿が強くて綺麗だと思った。
ああなれたらどれだけ良かっただろうか。
私には高校生の時から、この感情はただひたすらに苦痛でしかなかった。
自分の醜く浅ましい感情。
何年経っても相手の幸せを願えないのだから。

タバコを咥える先生は、36歳になった先生は、痩身だったあの頃より体格が良くなった気がした。
教師としての貫禄がついた横顔に、もう黄色い声で呼び立てる生徒は居ないのかもしれない。
それでもあの頃と変わらない優しい瞳で、今でも学生に慕われる先生のままでいるのだろう。
ライターを持つ右手にはもうなんの違和感もない結婚指輪。
高校三年生のある日突然先生が指輪をして来た時は、ジャージ姿に、照れ臭そうにはにかむ顔に、不自然に輝いていたのに。

盲目的な恋であって欲しかった。
この気持ちが、一過性のものであったらどれだけ良いと思っただろうか。
この気持ちは、跳ねる心臓は、恋というより呪いだ。
何度も考え直した。
この10年、恋人がいる時期だってあった。
それなのに今日という日が近付くにつれてなんの意味も無いお洒落をして。
今も吸っているかなんてわからないのに、僅かな望みにかけてタバコを買って。
この瞬間が来ることに賭けていた、なんて。

何度も何度も考え直した。
恋に恋していただけだ、なんて何度も言い聞かせた。
それなのに理性より先に心臓が訴えるのだ。
気の迷いであって欲しいと願う程に、悲しい程に。

メンソールがキツいはずのタバコは、緊張のせいでなんの味もしなかった。
ただの有害な空気。
私のこの醜い感情と同じだと思った。
報われないと、報われてはいけないと、必要ないと、わかっていながら10年やめられないでいる感情。
今日が終わったら私はタバコを辞めるのだろうか。
ずるずると吸い続けるのだろうか。
分からない。
分からないけど、終わりにしたい。

噎せ返しそうになる1歩手前まで深くタバコの煙を肺に溜める。
この後のことはもう考えたくない。
ただ一言を終止符にしたら、先生の反応なんて見たくない。
できるならすぐこの場から逃げたい。
今はすぐにでもこの呪いを外したい。
この呪いのせいで当時から私は先生の目を見ると声が出せなかった。
けれど、今だけは逃げられないのだ。

この有害な煙と一緒に吐き出そうと思う。
この呪いのような恋を終わらせようと思う。

「先生が好きです」

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