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「鬼」とは、一体何なのか。

皆さんもお気づきの通り、「鬼滅の刃」が流行ったのは見えない世界の方から「鬼について見聞を深め、ただ怖いから排除すべきものといった偏見を取り除いて、双方前進の道を歩むべし」的なプッシュがあったから、なわけでね。

鬼といえば、赤かったり青かったりして、人間に悪さをする、理性にかけた暴力的な妖怪のイメージがトップに来るのが常だったであろうところ。

元が人間であることも多く、大抵なにかしらの強い想いがこじれていて、解消できない悲しみに負けた姿の象徴、みたいな理解も進んだのだろうね。

妖しい、怪しい。妖怪の字面もまた「なんだかわからない、気色悪いもの、怖いもの、でも少し惹かれるもの」くらいのもの。その中でも格別怖くて逆らえないくらい、できればお会いしたくない類の存在が鬼、と言えるのだろう。けど。


私が「鬼」という時は、少し違う。もう少し、陰陽論的に根本に帰ったところから見た場合、「鬼」とは「透明で極端に大きなエネルギーの塊」と表現すべきものだからね。

例えばね、よく「鬼門」っていうでしょ。方角としては、北東。汚くしておくと良くないから、綺麗にしておいた方が良い、家でいうなら、そこに水回りが無い方が良い、そういうところ。何故、汚してはいけないんだと思う?

その方向に見えない扉があって、汚すと扉が緩んで向こう側に大挙して待っている、いわゆる「鬼」が棍棒持って襲いにくるから、では、ないんだよね。

鬼という透明で大きなエネルギーは純粋で、そのまま活用できるなら、素晴らしい働きをしてくれる、この世界の大切な循環エネルギーの1つ。宿曜占星術では「鬼宿」という宿があるけど、この人たちはとても面倒見がよく、情け深い。それだけの透明で純粋な力を、生まれつき持っているからね。

と言いつつ、鬼宿を含む私たち全員、実は同系統の力を根本に抱えて生きている。

え?!私たちの中の鬼?

そう。私たちが生きてる間に磨きさがさなきゃいけない「魂」とは、「鬼」と「云」。「云う」というのは「言われている、伝えられている」という意味で、すごく極論すれば「鬼だってさ」みたいなこと。

『私たちの魂は、鬼だってさ。』

ほら、急に対岸の話だった鬼が、身近になったでしょ?

魂が汚れるとエネルギーが循環しなくなって、私たちに著しく不都合が起きやすくなるのと同じように、鬼門が汚れれば、元々は綺麗で大きいだけのエネルギーが変質して凝り固まり、「鬼」という妖怪として半物質化しやすくなるってことなんだよね。

そうなるとね。例えば鬼門のトイレやお風呂を物理的に汚さないのも大切なように、そもそも鬼=透明で大きなエネルギーそのものである魂周りを、非物理的に汚さないように努力するのがいかに大事か、わかってくるよね。

人は、生きたまま鬼になれるからね。体がある分、半物質化ではなく、完全に物質な分、ゆめゆめ気をつけなくてはならないところで。

「でも、汚れるってどういうことよ?そんなに純粋に生きられるほど、世間そのものが綺麗じゃないけど(笑)」

うん。汚れや穢れってのは「気枯れ」のことで、正気=本来満ちてるべき気が減って、そこに人からの念や外からの邪気(滞った気の塊)が入ってくること。あるいは、自分の中で循環できなくなった気が滞り、中から念や邪気が湧いてくること。

これがこじれてくると、人は生きたまま鬼になる。「陰陽師」って映画では「生成り(なまなり)」って表現されてるけど、心の中の違和感を放っておいたり、強すぎる欲求と折り合えなかったりするとね。人間は、人間でなくなってしまうことも、できる。

対策としては、自分自身が「正気」に満ちて、自分の中が循環していればいい。周囲や世間がどうであれ、問題ないと言えるようになっていく。外からの影響を抑え、内側の感情や衝動も度を超えないようにする、それも訓練次第。私のセッションでも、大抵そういう方向性の話が混ざってる。


また「鬼」と一口に言っても、特に邪気や穢れと関係なく、大きな世界循環の中で働いてくれている存在だって、いる。

例えば、地獄の獄卒は、鬼がやってくれてる。人間にとっては、環境そのものが拷問に当たるような世界で、暑さ、冷たさ、重さなどに耐える体。睨むだけで、相手を震え上がらせるだけの容貌。別に意地悪でやってるわけではなく、彼らも使命を帯びて、役割でやってるわけだからね。有難い話。

同じく六道輪廻の別世界、餓鬼界には餓鬼もいる。彼らは罰を与えられた姿でそうなっているから、暴力的なところはなく、ひたすら自身の欲望と向き合うのが仕事なわけで。大きな力はあるのに、ひたすら満たされないことの、本当に非人道的な苦しさツラさが、転生後に生かされるといいよね。

ただし。彼らに年がら年中、同情するのはやめておいて。お互い、修行中の身。大体、年に一度は、あちこちの仏閣で施餓鬼会をおこなうはずなので、その時に供養=想いを馳せたり、食べたエネルギーを回していると意識したり、してください。


こんな感じで、鬼と言っても種類があるわけ。

・透明で大きな根源エネルギーの一つ

・そこに邪気や念がついて半物質化

・人間の中に邪気や念が溜まって鬼化

・亡くなってから餓鬼として修行

・鬼の姿はしてるけど人間と変わらない系

・元は鬼だけど今は神仏

そして、私が「鬼エネルギーの循環巡業」と言っている時は、「人間と変わらない」、つまり「この世界の維持が大切で、共存やむなし、むしろ快くの方が循環するわな」という意識の鬼、及び、鬼出身の神仏が、助けてくださるわけ。

でもね。人間と変わらない、とは書いたけど、「この世界の維持」とか「共存やむなし」とか、どこまで人間側が感じてるかは、実は千差万別じゃない?「快く対応した方が、みんな気持ちいい」とわかっていても、わだかまりとか、気がかりとか、そんなの100%は払拭できない。

だから、誰でも、いわゆる「鬼」になる素養はあるんだ。自分だけは大丈夫、正しい、清い、そんな風な偏りが一層、人間のまま角を生やしてしまう原因になる。

いわゆる「鬼」ではなく、透明な循環エネルギーマスターになるためにもさ。これからはもう「鬼!悪魔!」なんていう慣用表現は忘れて、鬼もまたバランス、で行こう。

見えない世界に関わる活動も、現実に降ろしていくためには費用が不可欠です。陰徳(見えないところで良い行いをする昔ながらの方法です)を積むつもり是非ぜひ、サポートお願いいたします☆