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「が」の話


「我(が)」というと
わがまま、とか
我を張る、とか
良くない、いけないイメージが先行して

それを無くそうとしたり
抑えたりしようとしたり
ひたすら減衰・消滅の方向へ
持っていこうとするケース
結構あると思うんだよね。

でも、我って書いてあるくらいだから
それは「自分自身」であってさ。

自分本体への基本姿勢が
無くす・抑えるだとしたら
ちょっとマズいと思わない?

「そうは言っても。
 我が強いとなれば
 人に文句ばかり言ったり
 自分の話ばかり正当化したり
 すぐに怒って思いを通そうとしたり

 手のつけられない暴れん坊みたいな
 グズって手に負えない子ども的な
 想像しか、つかないじゃない。

 周囲にも迷惑だし、嫌われそうだし
 実際、我の強い人嫌いだし」

そんな意見も、きっとあるかなと思う。
そうだね、そういう我の強さは困るね。

.

それなら、逆に「我が弱い・ない」
そういうケースを考えてみようか。

どんな内容の問いかけにも
「いいよ」と答えるか
返事ができないか。

何か希望を訊いても
「あなたと同じでいいよ」
「みんなに合わせるよ」

好き嫌いを尋ねても
首をかしげて「わからない」
「私のことは気にしないで」

誰かに何か、強めに言われると
無視も、断ることもできなくて
ただ困る。流されることも多い。

もっとしっかりしなよ!と言われても
どうしたらいいかサッパリわからない。
わかっても、何もできない。

あれ、おかしいね。
我を無くしたら
もっと人格者になるから
みんな、そこ目指すんじゃなかったっけ。

シンプルに我をなくすと
ただの「自分がない人」になるんだね。

どうしたら、目指しているような
「いい感じ」の自分に届くんだろうね。

.

我は、自分自身だからさ。
強すぎるのも困るけど
弱すぎても、うまくいかない。

それなら、良い按配で
「我」を保てていると、どうなるか。
とある漫画に、的確な表現を見つけたよ。

「心のままにストレートに
 発言するし行動する

 人に余計な遠慮がない

 自分の本心に嘘がなくて
 自由で
 気楽で
 健全だ」

そして、適切な感じで我を保つには

「本当の自分が
 納得するよう
 満足するよう
 正直でいること」

それがまた
「自分を守ること」にもなる。って。

心のままに発言なんて恐ろしい。
そう思う人もいるだろうけど
思いつくことを何でも吐き出して
撒き散らすって意味じゃなくてさ。

自分の好き嫌いにのっとりつつ
状況を加味してサラッと話ができる
そういうことなら、いいんじゃない?

人の顔色で発言が揺らぐこともなく
さりとて押し付けまくるでもなく。

行動もさ。
これは良い、と思ったら即座に動けちゃう。
というか、動かずにいられない。
その原動力、機動力は好ましいよね。

その時に、必ず嫌がる人を巻き込むとか
別の条件が付いちゃうと、また違うけど
見えぬ結果を心配するよりも先に
まず、動く力が「我」にはあるんだ。

自分に嘘がなければ
つまり滞ってる部分がなければ
気は軽く明るく巡るから
精神的にも健康で、楽に柔軟にいられる。

理想的じゃない?

.

どうしたら
そういう「我」でいられると思う?

自分がね。
何をしていると
どうなっていると
自由だと感じるのかを
ちゃんと、わかっていくこと。

集中できて
時を忘れるほど楽しくて
まばたきも惜しいくらい面白い
そんな風に感じられる
コトは、モノは、何か。

あるいは、もっと静的に
瞑想やグラウンディングなんかで
時を忘れるほど心地よい
なんていうのでも、いいんだろう。

そういうコトやモノに
関わる時間を増やしていけると
そういうヒトも集まってきてくれる。

ただ無心に
この世界と一体化してしまえるほど
我(われ)を忘れられる時間

その最中に、あるいは終わった時に
楽しくて面白くて幸せ♪ってなる自分こそ
「我」=自分自身、って繋げられれば。

すごくいいと思わない?

.

最近では「自分軸」って言葉もあるけど
要するに「我」なんだと思ってて。

誰にも譲れない
自分の人生を生きるために
適切な強さの「我」は必須なんだね。

だからね。
わがまま=我のままの自分がどういう状態か
きちんと知りもせず
「こんな自分はいけない」と封印する方が
余程、後になって危ないと思うんだよ。

得体の知れない強い何かなんて
確認もせずに沈めておいたら
暴発するなり、強烈に腐るなり
良いことなんてあるわけないじゃない。

それが以前から言っている
「腹の底の鬼」でもあるわけだから。

封印や抑制ではなく
連携して協力して
どうしても荒れる日は引きこもる
それくらいのつもりで
柔軟に対応していけるといいね。

.

ちなみに
「梵我一如」って言葉がある。

宇宙の原理と
自分の原理は
元は1つだよって。

その原理の1つ
統合して合動させてこそ
原理の陰陽を成す「我」を

隠したり捨てたりするって
どうなんだろうって思わない?

この「梵我一如」の話は
紀元前1000年〜500年頃には
もうすっかり語られてた内容で。

大昔から大きな問題の1つなんだね。
「我」って。

だから、今うまくできてなくても
すぐ、できるようにならなくてもいい。

それでも。
捨てたり消したりする方向ではなく
あなたが、あなた自身に戻るために
「我」は大事にして欲しいんだな。

大事にする方法は、途中にも書いた。

「ただ無心に
 この世界と一体化してしまえるほど
 我(われ)を忘れられること」

「自分を自由にしてくれるもの」

それを、探していくことだよって。
これを読んじゃった人は
今日からでも早速、どうぞ(´∀`)

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