私ってポンコツなのかもしれない

 今日、怒られた。久しぶりに体験したので、もはや初めての経験に思える。あんまり惨めなので笑顔を絶やさずいた。マスクで見えないけれど、いや見えないからよかった。マスクの繊維の隙間から滲みこぼれなくてよかった。怒られている最中に私が頭の中でこなしたタスクは以下のものだ。

・なんでこうなってしまったかを考えてから、こうならざるを得なかった事情を過去の行動の記憶から引っ張り出してくる
・他の人の場合を広げてみる
・「もしかして…私ってポンコツなのかもしれない」という台詞を気に入って繰り返す

 ポンコツという言葉がいやに心を落ち着ける。自分がポンコツであるという方程式を反芻すると、心が安まる。怒られて惨めだと、妙に母に対して悲しくなる。申し訳ないという気持ちなのか、全てを投げ出して甘えたいという気持ちなのかわからないけど、まるで映画の感動場面を見ている者のような気持ちで自己と母を思い描いてしまうのだ。

 怒られているとき、気になるのは周りの非被怒者がなんて思っているかということ。これらの傍観者の有無で怒られて得られる考えも、真っ直ぐなもの、歪んだものと変わるに違いない。今日の私は、なんの関わりもないが長期間空間を共にする人々が彼らであった。慰めてくれるものはいない寂しさはあるが、反比例して恥ずかしさは少なくなる。
 いつ一番居心地の悪さを感じるかというと、この一連集まりの終わった後に、半ば自身の意欲を助けるため半ば怒者との軋轢を緩やかにすべく弁明を行うために、怒者の元へいそいそとにじり寄って行く時に、きっと怒者に「お、来たぞ来たぞ」なぞと思われているだろう、と想像するときの心だ。そのにじり寄りの移動に立ちはだかる道のりは、大路とでもいうべき果てしなさ。

 ポンコツ、辞書で引いたらもとは大ぶりの金槌の意味で、壊れた又は壊れかけの車を指すらしい。発展して、車以外にも役に立たなくなりかけたものをも指す。そして辞書のこの隣の単語は、平凡な才能のことをいう凡骨という言葉が載っていた。

 出典を確認しなきゃいけないことは、息苦しくもあるが風通しがよく私を助けもする。

 ひとまず、今日は怒られた。怒られて彩られる惰性の毎日だ。

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