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キケン!大きなカーブにつき見通し悪し(戯曲)

【これは、劇団「かんから館」が、2019年6月に上演した演劇の台本です】

〈登場人物〉
 妻
 夫
 産婦人科医
 ハルカ
 ミオウ
 精神科医
 弁護士
 声

  牧歌的な音楽。

ナレ  ある日、おじいさんがカブのタネをまきました。

  男が出てくる。

男   甘い甘いカブになれ。大きな大きなカブになれ。

ナレ  おじいさんは一生懸命にカブを育てました。すると、やがて甘い甘い、大きな大きなカブに育ちました。

〈チャイム〉
ナレ  いのちは大切に思う心によって育ちます。大きくなることだけが大切なことではありません。成長していく中でたくさんの問題が出てきます。

ナレ  おじいさんは大きく育ったカブを抜こうとしました。

男   うんとこしょ、どっこいしょ。

ナレ  けれども、カブは抜けません。
おじいさんは、おばあさんを呼んできました。

女   まあ、何て大きなカブなんでしょう!

ナレ  カブをおじいさんが引っ張って、そのおじいさんをおばあさんが引っ張って、

男・女 うんとこしょ、どっこいしょ。

ナレ  それでも、カブは抜けません。

〈チャイム〉
ナレ  せっかく大きく育てたカブでしたが、一人では抜けません。これは何を意味しているのでしょうか。いろんなことを教えているような気がします。

ナレ  そこで、おばあさんは孫を呼んできました。

孫   うわー。すっごーい! ヤバーイ! 超うけるー!

ナレ  カブをおじいさんが引っ張って、そのおじいさんをおばあさんが引っ張って、そのおばあさんを孫が引っ張って、

三人  うんとこしょ、どっこいしょ。

ナレ  やっぱりカブは抜けません。

〈チャイム〉
ナレ  ここで大事なことは、生きていくことの中心軸が少しずつ引っ張られてきたということです。

ナレ  そこで、孫は犬を連れてきます。

犬   ワオ! 何て大きなカブなんだ! ファッツァ、ビッグカーブ!

ナレ  カブをおじいさんが引っ張って、そのおじいさんをおばあさんが引っ張って、そのおばあさんを孫が引っ張って、その孫を犬が引っ張って、

全員  うんとこしょ、どっこいしょ。

ナレ  まだまだ、カブは抜けません。
そこで、今度は犬はキジを呼びに行きます。

キジ  それって肉体労働でしょ? うーん、まあ、条件次第かな?
犬   それが、きび団子でって話なんだけど‥‥。
キジ  え? 団子一つで働けって? 冗談はやめてよ。ブラック企業でもそこまでひどくないよ。

ナレ  キジは難色を示しましたが、でも、カブを見てびっくり!

キジ  オーマイガー! ビッグビッグフライ! オオタニサン!

ナレ  カブをおじいさんが引っ張って、そのおじいさんをおばあさんが引っ張って、そのおばあさんを孫が引っ張って、その孫を犬が引っ張って、その犬をキジが引っ張って、

全員  うんとこしょ、どっこいしょ。

ナレ  それでも、カブは抜けません。

〈チャイム〉
ナレ  人間は人間だけで生きているのではありません。あらゆる生き物と共に生きていることをついつい忘れてしまいます。人間だけではなく他のあらゆる生き物とともに生き、同じいのちをいただいているのです。

全員  ♪父ちゃんのためならエンヤコラ
母ちゃんのためならエンヤコラ
もひとつおまけにエンヤコラ

ナレ  みんな一生懸命に引っ張りました。力の限り引っ張りました。それでも、カブは抜けません。
そこへ、一人の男がやって来ました。

  侍姿の男。腰に刀を差している。

侍   うぬら、何をやっておる?
男   私たちは、カブを抜こうとしているのです。
侍   何? カブとな?

ナレ  男はカブを見ました。

侍   なるほど、これはとてつもなく大きなカブじゃな。

女   お侍様、おねげえでござりますだ。どうかわしらに力を貸してやっておくんなまし。
侍   ん? 拙者にか?
女   はい。
全員  おねげえいたしますだ。

ナレ  男は、しばらく考えていました。

侍   よし、わかった。苦しゅうない。近う寄れ。
全員  おありがとうございます。

ナレ  おじいさんもおばあさんも孫も犬もネコもキジも大喜びでした。

侍   つかぬことを聞くが。
男   はい?
侍   うぬらはロシア人か?
男   は?

ナレ  そう言うと、男は突然刀を抜いて、おじいさんに切りつけました。

男   うわあ。

ナレ  そして、今度はおばあさんに切りかかり、そして孫も、犬も、ネコも、キジも、みんな切られてしまいました。

ネコ  オーマイガー。
キジ  ‥‥あ、あんたは、一体何者なんだ‥‥。
侍   拙者か? まあ、名乗る程の者ではないが‥‥人にはこう呼ばれている。ヨラバキルゾウとな。
キジ  よ、ヨラバ‥‥キルゾウ‥‥。(死ぬ)
侍   また、つまらぬものを切ってしまった。

  侍姿の男、去る。

ナレ  こうしてみんな死んでしまいました。そして、大きなカブはそのまま腐ってしまいましたとさ。めでたしめでたし。

〈チャイム〉
ナレ  努力は必ず報われるとは限りません。善意は必ず通じるとは限りません。悪意には必ずしも理由はありません。この世は一寸先は闇なのです。そのシビアな現実を学ぶのに、早すぎるということはないのです。

  暗転。

  音楽。(「ヴォルガの舟歌」)

  テーブルとイスが2セットある。
  その片側に、夫と弁護士が向かい合って座っている。

弁護士  それでは、奥さんの方が、離婚を希望しておられるんですね。
夫  はい。
弁護士  で、ご主人は応じたくない、と。
夫  はい、そうです。
弁護士  なるほど。
夫  ‥‥‥。
弁護士  そうですか。(と資料を広げる)‥‥まあねぇ、こういうのは多いんですよねぇ。
夫  え? 離婚がですか?
弁護士  いや、離婚調停ですから。
夫  ああ‥‥そうですね。すみません。
弁護士  奥さんの方が離婚を希望していて、夫の方には自覚がない。‥‥そういうケースが圧倒的に多い。
夫  え? 自覚がないって?
弁護士  例えばDVとか。
夫  え、DV?
弁護士  ドメスティックバイオレンス。夫婦間の暴力です。ご存じですか?
夫  そのくらい知ってますよ。バカにしないで下さい。
弁護士  いや、これは失礼。
夫  じゃあ、僕がDVをしたって言うんですか? そんなのあり得ません!
弁護士  いや、だから、例えですよ。例え。
夫  はあ。
弁護士  ‥‥しかし、当人に自覚がないからといって、必ずしもDVが存在しなかったということにもなりませんがね。
夫  え?
弁護士  ひと言でDVと言っても、いろいろありますからねぇ。殴る蹴るだけがDVじゃない。言葉の暴力もあるし、精神的DVなんてのは、むしろ加害者に自覚がない方が多いでしょう。
夫  はあ。‥‥でも、自分で言うのもなんですが、私たちは仲のいい夫婦なんですよ。少なくとも私はそう思ってます。
弁護士  ほら、最近、児童虐待のニュースとか、よくあるじゃありませんか。あれだって、ほとんどの加害者は「しつけ」だったって言ってますよね。DVだってそうです。からかいとかじゃれあいのつもりが、相手にはDVだった。愛情表現のつもりが苦痛だったなんてのは、よくある話です。
夫  じゃあ、やっぱり私のDVが原因なんですか?
弁護士  いや‥‥。(と、資料をめくる)奥さんの方から、そのような訴えはありませんね。
夫  え。‥‥じゃあ、今の話は何だったんですか?
弁護士  ですから、例えですよ。例え。
夫  ややこしい例えを言わないで下さいよ! ほんと、まぎらわしい!
弁護士  いや、離婚の一般的な状況を理解してもらった方がいいかと‥‥。
夫  え‥‥。別に、離婚についての授業をしてもらいたくてここに来てるんじゃないんですけど。
弁護士  それはわかってます。ですが、こういうことは、急がない方がいいんです。冷静で客観的な判断が大切ですから。
夫  そんな悠長なこと言ってられませんよ。わかってます? 僕は離婚されそうなんですよ。何の非もないのに離婚されそうなんだ。冷静で客観的になんかなれませんよ! だいたい、あなたは他人事だからそんなことが言えるんだ!
弁護士  ‥‥‥。そうです。他人事なんです。
夫  え?
弁護士  今のあなたの状況が危険なんです。‥‥夫婦関係、男女関係というのは、ともすれば感情が先に立つ。冷静、客観的に考えるのは至難の業だ。それはよーくわかります。ですが、そうであるからこそ、冷静、客観的な視点が必要なんです。だからこそ、弁護士に調停を依頼する。弁護士は、あくまでも他人で、第三者で、距離をおいて判断しますからね。違います?
夫  はあ‥‥。そうですね。‥‥すみません。
弁護士  それと。
夫  え?
弁護士  私も、実は離婚経験者です。
夫  え?
弁護士  バツイチです。先輩です。(ピースサイン)
夫  はあ‥‥。

  もう一方のテーブルとイスに、妻と産婦人科医。
  夫と弁護士は残っている。

産科医  そうねぇ、空に飛んで行くみたいって言う人もいるけど、雲から落ちちゃうみたいって言う人もいるのよねぇ。飛ぶのと落ちるのと、正反対じゃん。おっかしいよねぇ。
妻  はあ。
産科医  で、私の場合はね。‥‥あ、聞く?
妻  まあ、一応、参考に。
産科医  あ、そう。参考になるかどうかわかんないけどねぇ。何かねぇ、飛ぶのでも、落ちるのでもないのよ。ほんと、もう死んじゃう!ってゆーか、あ、これ、例えじゃなくて、マジで死んじゃいそうなわけ。行く行くとか死ぬ死ぬとかAVとかであるじゃん? あ、AV見たことある?
妻  え? ‥‥チラッとぐらいなら。
産科医  あ、そう。あれ、見た方がいいよ。別に参考になるってわけじゃないけどさ。てゆーか、あれ、マジで参考にしてさ、AVの受け売りみたいなセックスしかできない男が多いじゃん。最近。
妻  はあ。
産科医  あれ、困るのよねぇ。あれって、あくまで見せ物だからさあ。
妻  はあ。
産科医  ほら、オーラルってあんじゃん。オーラルセックス。フェラとかシックスナインとか。あれってね、昔は変態だったのよ。あんなの変態雑誌にしか載ってなかったの。それが、今ではみんなやるでしょう? あれってね、AV見てると、四十五分物だったら、だいたい二十分過ぎたあたりから始まるのよね。どのビデオみても、みんなそう。もう、完全にパターン化してるのよねぇ。水戸黄門の印籠と同じ。あんた、若いから水戸黄門知らないか?
妻  ‥‥一応、見たことはあります。
産科医  そっか、知ってるんだ。
妻  小さい頃ですけど。
産科医  あれね、格さんが「静まれぇ?、静まれぇ?、控えおろう! この紋所が、目に入らぬかぁ?!」ってやるんだけど、それが八時四十六分なの。その前に、だいたい八時四十分過ぎにチャンバラが始まって‥‥。
妻  時代劇、お好きなんですか?
産科医  まあ、好きっちゃ好きだね。うちのじいさんが大好きでね、私はおじいちゃん子だったもんだから‥‥。
妻  はあ‥‥そうなんですか。
産科医  うん。‥‥でも、ほんと、最近時代劇やらなくなったよねぇ。NHKで土曜の夜とかにやってるけど、あれチャンバラものじゃないし。チャンバラ見たかったら、BSの再放送か時代劇専門チャンネル見るしかないもんね。あ、時代劇専門チャンネル知ってる? スカパーの。
妻  いいえ。‥‥あの‥‥。
産科医  え? あ、ごめんごめん。時代劇の話じゃなかったよね。
妻  あ‥‥はい。
産科医  で、何の話だっけ?
妻  え‥‥あのう‥‥その、パターン化してるって‥‥。
産科医  パターン化? あ、そうそう、セックスのパターン化だったっけ?
妻  あ‥‥はい。たぶん、そう。
産科医  もう、そうなんだよねぇ。もう、何でもかんでもマニュアルの時代なんだから。コンビニやファミレスの接客は完全マニュアルだし、就活とかもかなり前からマニュアル化されてるし、デートなんかでもマニュアルなんでしょ? 初めてのデートで行くレストランとかラブホとかのコースもガチガチにマニュアル化してるって話だし。
妻  ‥‥‥。
産科医  お宅の結婚もそうだったの?
妻  え? ‥‥さ、さあ?
産科医  ‥‥あの‥‥タバコ吸ってもいいかな?
妻  え?
産科医  いや、タバコっつっても電子タバコだからさ。
妻  ああ‥‥。どうぞ。
産科医  サンキュ。

  産科医、電子タバコを吸う。

産科医  いや、最近さ、もうタバコに関してはムチャクチャうるさいわけよ。世間がね。もう、喫煙してるヤツは人非人。人権なんかありゃしない。もう、大麻とかコカインやってるみたいな扱いなわけ。
妻  はあ。
産科医  特に、医者とかやってると最悪。医者の不養生とか言ってさ。おまけに、産婦人科ときてるから、副流煙がなんだかんだってもう言う言う。
医者ってストレスが多い仕事だからさ、元々タバコとの親和性は高いわけ。だから、昔はタバコ吸ってる医者はウジャウジャいたんだけど、でもさ、一方で、タバコを目の敵にしてる医者もけっこういるからさあ、もう机の下で足を蹴り合うバトルみたいになっちゃって‥‥アハハハ。
妻  ‥‥‥。
産科医  あ、ごめんごめん。そういう話じゃなかったよね?
妻  え? ああ‥‥はあ。
産科医  えーっと、何だっけ? 何の話してたんだっけ?
妻  え? ‥‥その‥‥だから‥‥。
産科医  あ! オーガズムだ! 思い出した! オーガズム! ね、そうでしょ!
妻  あの‥‥先生。ちょっと声が。
産科医  え? あ、ああ‥‥ごめんなさい。
妻  ‥‥‥。
産科医  そうねぇ‥‥オーガズム、オーガズム。イクとかエクスタシーとか、いろいろ言うけど、そういうのない人って結構いるのよ。あなたみたいに。
妻  はあ‥‥そうなんですか?
産科医  そういうの、一度もなかったのかな? これまでずーっと。
妻  ですから、そういうのが、どういう感じなのか、よくわからなくて。だから、あったのかなかったのかも‥‥。
産科医  そうだよねぇ。そうなんだよねぇ。そうそう、その話だった。
妻  はい。
産科医  まあ、医学的に言うと、そういうのを原発性オーガズム障害って言うんだけどさ。
妻  え? 障害って、病気なんですか?
産科医  いや、大げさな名前が付いてるけど、まあ、医学用語って何でも大げさでもっともらしい名前付けるからさ。‥‥ほら、例えば、そうねぇ、ほら、例えば、流行性耳下腺炎って病気があるんだけど、何の病気だかわかる?
妻  りゅうこうせいじかせんえん?
産科医  これがね、おたふくかぜの正式名称なの。大げさな名前でしょ?
妻  ああ。
産科医  ただの風邪だって急性上気道炎って名前があるし、ものもらいだって麦粒腫っていかつい名前が付いてるの。まあ、医学用語ってだいたいそんな感じなわけ。
妻  はあ。
産科医  だから、病気とかそんな風に深刻に捉えない方がいいよ。深刻に考えると、余計にしんどくなっちゃったりするから。
妻  はあ。
産科医  でね、そういうのは、体に原因があることもないわけじゃないんだけど、心理面、心の方に原因がある場合の方が圧倒的に多いのよねぇ。
妻  心‥‥ですか?
産科医  そう。‥‥あのさ、ちょっと聞くけど、精神科とか行ったことある? 薬もらったりとか?
妻  精神科ですか?
産科医  うん。
妻  高校生の頃、ちょっと気持ちが不安定なことがあって、不登校ってほどじゃないんですけど、学校に行きづらくなっちゃって、それで行ってたことがあります。
産科医  それで、カウンセリングとか受けてたの?
妻  はい。何かそういう感じのやつ。いろいろ話とかしてもらいました。
産科医  ふーん。それで、薬は?
妻  もらいました。
産科医  そっか。それって、抗不安剤かな?
妻  え? さあ?
産科医  デパスとか、そういう名前じゃなかった? 白いラムネ菓子みたいなやつ?
妻  ああ、そういう名前だったような気がします。
産科医  そっか。‥‥それは、今でも飲んでるの?
妻  今は飲んでません。高校生の時ですから。
産科医  そっか。‥‥いやね、鬱病の薬なんかにはね、性機能に影響がある薬もあるんだけど。‥‥まあ、それはないのかな?
妻  はあ。
産科医  ‥‥後、これは症例はそんなに多くないんだけど、コンドームのこと。
妻  え? コンドーム。
産科医  男性にはけっこういるんだけど、コンドームつけてたらダメっていうのがあるの。
妻  はあ。
産科医  そんなの、ホントはないんだけどね。特に日本のコンドームは世界一優秀で、すっごく薄く作ってるから。
妻  ああ、そうなんですか?
産科医  コンドームの厚みってどれくらいか知ってる?
妻  え? ‥‥いや。
産科医  最近はね、0・001ミリってのがあるの。わかる? 0・1ミリじゃないのよ? コンビニのレジ袋が0・01ミリぐらいだから、それの十分の一の薄さ。すっごいでしょ?
妻  はあ、すごいですね。
産科医  それを作ってるのが、オカモトって会社。世界のオカモトって有名で、薄手のコンドームでは他の追随を許さないの。まあ、ジャパンテクノロジーの代表格ね。知ってる?
妻  いや、知らないです?
産科医  ええ? それダメだよ。ちゃんと夫婦生活やろうと思ってたら、避妊具とかにも関心を持たないと。
妻  すみません。
産科医  そういう所に、意外と夫婦生活の亀裂の原因があったりするから。
妻  ああ、そうなんですか?
産科医  そう。‥‥でね、そんな極薄のコンドームだから、コンドームつけたらダメだ。ナマなくてはダメだっていうのは、あんまり物理的な根拠はないんだけど、まあ、心理的にそういうのがあったりする。
妻  はあ。
産科医  それで、まれに、女性側にもそういう心理的な症状があるケースもあるわけ。
妻  え? 女性に?
産科医  うん。だから、コンドームつけてるから感じないんじゃないか? オーガズムがないんじゃないか? ってやつ。
妻  へぇ。
産科医  これは、男性以上に、もう完全な思い込みなんだけど、思っちゃう以上、どうしようもない。だったら、その要因を取り除くしかないわけ。
妻  要因を取り除く?
産科医  つまり、「ナマでやってみよう」ってこと。

夫・弁護士 そうだ、ナマでやってみよう!

妻  はあ‥‥。なるほどねぇ。
産科医  まあ、さっきも言ったけど、セックスに関しては、メンタルな要素がかなり絡んでくるから、一度、そっちもあたってみたら?
妻  そっちって‥‥精神科ですか?
産科医  うん。そう。‥‥よかったら、そっちの方面に詳しい先生を紹介するから。
妻  わかりました。お願いします。

  二人の女の子が座っている。
  サンバイザーとマスクと手袋のハルカとミオウ。

ミオウ  もうすぐ夏だねぇ。
ハルカ  うん。
ミオウ  でも、梅雨だねぇ。
ハルカ  うん。
ミオウ  ムシムシするねぇ。カビの季節。体にまでカビが生えそう。
ハルカ  うん。
ミオウ  早く、夏になんないかな?
ハルカ  うん。
ミオウ  ‥‥あのさ。
ハルカ  え?
ミオウ  どうして「うん」ばっかりなの? 「うん」しか言わないの?
ハルカ  ‥‥‥。
ミオウ  もしかして、ミオウのこと嫌いなの?
ハルカ  え? ‥‥いや。
ミオウ  それにさ、どうしてマスクしてるの? それに、手袋まで。
ハルカ  ‥‥‥。
ミオウ  風邪ひいてるの? 花粉症?
ハルカ  え? ‥‥いや。
ミオウ  もしかして、あれ? メンヘラの人なの?
ハルカ  え‥‥。
ミオウ  あのさ、メンヘラの人って、海とか行くのかな?
ハルカ  え?
ミオウ  海水浴。
ハルカ  ‥‥ああ。
ミオウ  行くわけないか。海水浴場でマスクとかしてる人、見たことないもんね。
ハルカ  ‥‥‥。
ミオウ  それにしても、ずーっとマスクとかしてたらあせもとかできない? 息苦しくないの?
ハルカ  ‥‥‥。そうでもない。
ミオウ  ふーん。そうなんだ。へー。‥‥慣れってやつなのかな?
ハルカ  ‥‥‥。
ミオウ  そうそう、ミオウの知り合いに年中マスクの子がいてさ、その子がコーラス部だったんだけど、その子、歌を歌う時にもマスクしてるのよね。笑っちゃった。おっかしいよね。
ハルカ  ‥‥‥。
ミオウ  そういう子、カラオケでもマスクしてんのかな?
ハルカ  ‥‥‥。
ミオウ  あ、カラオケなんか行かないか。
ハルカ  ‥‥‥。行くよ。
ミオウ  え?
ハルカ  行くよ。カラオケ。
ミオウ  あ、そうなんだ。
ハルカ  うん。
ミオウ  やっぱり、マスクしてんの?
ハルカ  ‥‥‥。
ミオウ  あのさあ。
ハルカ  ‥‥え?
ミオウ  何かさっきからミオウだけしゃべってる感じじゃない? つまんないよ。
ハルカ  ‥‥ごめん。
ミオウ  いや、謝ってほしいわけじゃなくてさ、何かしゃべってよ。全然盛り上がんないじゃん、会話がさ。
ハルカ  ‥‥‥。
ミオウ  だからさあ‥‥。とりあえずマスク外さない? 何かそれ見てると、話を拒否られてる感じがするんだよね。お前とは話したくないんだぞって感じがする。
ハルカ  ‥‥そんなことないけど。
ミオウ  だったら、外してよ。お願いだから。外したら死んじゃうってわけでもないんでしょ?
ハルカ  ‥‥うん。
ミオウ  だったらお願い。外して。
ハルカ  ‥‥うん。

  ハルカ、マスクをあごにずらす。

ミオウ  ああ、やっぱりそうするんだ。あごの所にね。それって、すぐにつけられるようにしてんのかな? ほら、ヤンキーのバイクのヘルメットみたいにさ。
ハルカ  ‥‥‥。
ミオウ  ま、それはいいんだけど‥‥。へぇ、ハルカちゃんって、そういう顔なんだ。
ハルカ  ‥‥‥。
ミオウ  年中マスクの人って、顔の印象がうっすいのよねぇ。クラスで一緒でも、マスクの顔しか記憶に残ってないっていうか。
ハルカ  ‥‥‥。
ミオウ  あのさ、ハルカちゃん。‥‥って、そういう呼び方でいいのかな? もしかしたら、ミオウの叔母さんだった可能性もあるわけだから‥‥。
ハルカ  ハルカでいいよ。
ミオウ  だよね。だいたい同い年だもんね。タメだよね。タメ。
ハルカ  私が一つ上。
ミオウ  あ、そうなの? ハルカちゃんって、そういうのにこだわるタイプ?
ハルカ  ううん。こだわらない。
ミオウ  よかったー。ミオウ、上下関係とか超苦手でさあ、そういう人だったら困るなあって思ってたの。
ハルカ  それは大丈夫。
ミオウ  でも、変だよねぇ。同い年のハルカちゃんがミオウの叔母さんで、ミオウが姪っ子って、おっかしいよね。
ハルカ  私が一つ上。
ミオウ  ああ、そうだった。そうだった。
ハルカ  それに、あなたが姪かどうかもよくわかんない。
ミオウ  ああ、そうだった。そうだった。‥‥そうなんだよねぇ。ほんと、変だよねぇ。笑っちゃうよねぇ。
ハルカ  ‥‥確かに変ではあるけど、笑っちゃうことではないと思うけど。
ミオウ  ああ、そうだよねぇ。‥‥ハルカちゃんって、いつでも、誰にでもそういう話し方するの?
ハルカ  ‥‥‥。
ミオウ  友達いないでしょ?
ハルカ  ‥‥いないことはないよ。
ミオウ  へぇ、いるんだ。すっごいね。やっぱりマスクとかメンヘラの人?
ハルカ  ‥‥‥。高校の時、演劇部だったから。
ミオウ  演劇部? だったら、やっぱりメンヘラじゃない? 演劇部って、オタクかメンヘラの子ばっかでしょ?
ハルカ  ‥‥いや、そうでもないよ。
ミオウ  へぇ、そうなの? まあ、それはいいんだけど、何かねぇ、気持ち悪いのよねぇ。ミオウ、いるのかいないのか、よくわかんない存在だから。生まれるのか生まれないのかさえ、よくわかんなくって。すっごい中途半端。
ハルカ  ‥‥‥。
ミオウ  その点、ハルカちゃんはいいよねぇ。しっかり生まれて、しっかり死んでるんだからさあ。
ハルカ  ‥‥‥。
ミオウ  だからさあ、ミオウ、ハルカちゃんにお願いがあるんだけどさあ、いい?
ハルカ  え、何?
ミオウ  だからさ、お姉さんに言っといてよ。生むのか生まないのかはっきりさせてって。そら、ミオウにしたら、もちろん生んでほしいけど、生まないって決まってたら、それなりに諦めもつくからさあ。
ハルカ  え、でも。
ミオウ  せめてさ、セックスぐらいちゃんとやってほしいのよねぇ。感じるとか感じないとか、そんなの子供には関係ないから。やることやってくんないと、生まれる可能性だってゼロじゃん。‥‥そこんところよろしくお願いします。
ハルカ  いや、だから、お願いされても‥‥。
ミオウ  ええ? いいでしょ? そりゃ、あなたには関係ないかもしれないけど、ミオウにとっては思いっきり重要問題なのよ。
ハルカ  いや、だから、‥‥私、一応死んでるから。
ミオウ  そんなのどうとでもなるでしょ? 例えば、夢枕に立つとか、いろいろとやり方はあんじゃん。
ハルカ  いや‥‥夢枕ってのは‥‥。
ミオウ  えー? いいじゃん、夫婦が寝てるベッドのところにハルカちゃんが行ってさ、「さあ、あなたたち、真面目に子作りしなさーい」って言うのよ。
ハルカ  それって、逆効果にならない?
ミオウ  そっかなあ? ミオウだったら、死んだ妹のお願いだったら、がんばろうって思うけどなあ。
ハルカ  それは、あなただけよ。
ミオウ  そっかなあ?
ハルカ  そう。
ミオウ  かな?

  もう一方のテーブルとイスに、妻と夫と精神科医。

精神科医  まあ、昔と比べたら、最近では、かなりハードルは下がって来てるんですけど、やっぱりまだ精神科というのには偏見とかありますからねぇ。
妻・夫  はあ。
精神科医  あなた方にもあったりしませんか? そういう偏見とか?
夫  いや、ないつもりですが。
妻  私も。
精神科医  ほんまですか?
妻・夫  え?
精神科医  例えば、精神科ちゅうのんは、そもそも医者が怪しい。あいつら自身の精神が怪しい。そういうやつが精神科の医者になってる、とか。‥‥そういうこと思てはりません?
妻  え、そんなこと。‥‥ありませんよ。ねぇ?
夫  ええ、うん。
精神科医  ほんまですか?
妻・夫  ええ。
精神科医  昔はね、きちがい医者って呼ばれてたんですよ? 知ってはります?
妻  え?
夫  い、いや。
精神科医  まあ、きちがい病院の医者ってゆう意味なんでしょうが、きちがい医者って、医者がきちがいって感じがするでしょ?
妻  ああ。
夫  はあ。
精神科医  ほんまに思たはりません?
妻  え?
夫  何をですか?
精神科医  こいつ、きちがい医者ちゃうかって。
妻・夫  え?
妻  それはないですよ。
精神科医  ほんまですか?
妻・夫  え?
精神科医  いや、きちがい医者なんですけどね。精神科の医者やから。ほんま、ややこしくて困りますわ。ハッハッハッ。
妻・夫  ‥‥‥。
精神科医  それで‥‥離婚の相談でしたっけ?
妻  え?
夫  いや、そうじゃなくて。
精神科医  冗談ですがな。‥‥わかってます。わかってます。離婚せぇへんための相談でしたな。
妻・夫  ‥‥‥。
精神科医  ‥‥性格の不一致‥‥と。
妻  いや、そうじゃなくて‥‥。
夫  そんなに仲が悪いわけじゃないんです。
精神科医  いや、性の格の不一致。つまり、性志向のミスマッチを精神科ではそう呼ぶんです。性格の不一致と。
妻・夫  はあ。
精神科医  で、話は聞いてます。コンドームの問題でしたな。
妻  え?
夫  はあ?
精神科医  コンドームはお使いですか?
夫  え‥‥それは‥‥。
精神科医  そういうタブーはあきませんなあ。性の話は恥ずかしいとか、そういう一般常識を持ち込まれると、精神科の話はできません。
夫  あ、すみません。
精神科医  で、コンドームは?
夫  まあ‥‥使ったり、使わなかったり、です。
精神科医  コンドームはね、よろしくないです。
妻・夫  え?
精神科医  だいたいね、コンドームに限らず、外界を遮断するものはよくないです。
妻・夫  はあ。
精神科医  人間の堕落は、そもそもアダムとイブから始まってます。アダムとイブの話はご存じですね?
夫  はあ。
妻  だいたい。
精神科医  どういう話ですか?
夫  え?
精神科医  話してみて下さい。だいたいでいいですから。
妻  えーっと、大昔、世界にはアダムという男性だけがいて、その肋骨から女性のイブが生まれた‥‥と。
精神科医  それから?
妻  え? ええっと‥‥それから‥‥あ、そうそう、二人はリンゴを食べたんです。
精神科医  食べたらどうなりました?
妻  食べたらどうなった? ええっと‥‥何だっけ?
夫  ほら、あれじゃない? リンゴを食べたら、裸でいるのが恥ずかしくなった、ってやつ?
妻  あ、そっか。
精神科医  恥ずかしくなって、どうしました?
夫  え? ええっと‥‥そうそう、イチジクの葉で体を隠したんです。
精神科医  それです!
妻・夫  え?
精神科医  アダムとイブはイチジクの葉で自分の性器を隠した。それこそが人類の堕落の始まりです。
妻・夫  はあ?
精神科医  私もね、今はこうやって服とか着てますが、本当は今すぐにでも裸になりたいんですよ。スッポンポンにね。それが生き物の本来の姿ですから。犬が服を着ますか? ゾウアザラシが服を着ますか?
夫  い、いえ。
妻  着ません。
精神科医  でしょう? そうやって、外の世界とじかに触れ合う。生身の体で世界を感じ取る。それが生物の生命力の源なんです。
妻・夫  はあ。
精神科医  それなのに、人間は‥‥。服を着るどころか、家を建てて、日光と雨と風を遮断し、冷暖房を付けて、季節を遮断した。こんな愚かなことはありません。そう思いませんか?
夫  あ、はあ。
妻  ええ、言われてみれば。
精神科医  ほんまですか?
妻・夫  え?
精神科医  ほんまはそんなこと思ってないでしょう? 変なきちがい医者が言うから話を合わせとこう。そう思てるんでしょう?‥‥そういうのをね、忖度って言うんですよ。何でそんなことをするんですか? 私は悲しいです。
妻・夫  ええ‥‥。
精神科医  もっと自分に素直になりましょうよ。ありのままの自分を、ありのままの世界を受け入れましょうよ。そうしたら、私たちはもっともっと自由になれるはずなんです。わかりませんか?
妻・夫  ‥‥‥。
精神科医  ‥‥‥。それで‥‥ええっと‥‥そうそう、奥さんが、感じられへん、ちゅう話でしたな。
妻  え‥‥。ええ、まあ。
精神科医  感じひんねぇ。なるほど。感じひん、か‥‥。うん。
妻・夫  ?
精神科医  それでは、ちょっとお伺いしますが、そもそもあなた方、これまで感じてはったこととかあるんですか?
妻・夫  え?
精神科医  ほら、例えば「ああ、オレ生きてるなあ」って感じたりしますか?
妻・夫  え?
精神科医  「私は、今、確かに生きてる!」とか、そういう実感がありますか?
妻・夫  え?
精神科医  どうです? ご主人。
夫  ‥‥いや、そんなこと急に言われても‥‥。
精神科医  奥さんは、いかがです?
妻  え? ‥‥そうですねぇ。‥‥どうなんでしょう?
精神科医  どうなんでしょう? って、あなたのことですよ。
妻  あ‥‥はい。すみません。
精神科医  たぶんね、ないんですよ。そういうの。‥‥私だってありませんから。
妻・夫  え?
精神科医  これはね、あなたがたや、私だけの問題ではありません。現代人はね、リアルに生きることができないんです。
夫  はあ。
妻  ‥‥リアルですか?
精神科医  リアルを感じることができないんです。
妻・夫  ‥‥はあ。
精神科医  最近、ヴァーチャルリアリティってのが流行ってますよね。VRって言うんですか? 仮想現実ってやつ。こうやって、でっかいゴーグルみたいなのを頭につけて映像を見ると、目の前にナイヤガラの滝があるように見えたり、あるいは戦場にいるような感覚が得られるって言う。‥‥ご存じですよね?
夫  はあ‥‥まあ‥‥一応。
精神科医  ああいうのを体験するために、高い金を払ってイベントとかに行く人がいますが、私に言わせれば、金をドブに捨てるようなもんです。
妻・夫  ‥‥‥。
精神科医  バーチャルリアリティなんて、そこら中にゴロゴロ転がってますよ。タダでいくらでも体験できますよ。何せ、イマドキ、この世の全てが仮想空間で、ヴァーチャルリアリティーみたいなもんですから。そう思いません?
妻・夫  え?
精神科医  いわば、日常空間の全てがおとぎの国ですわ。ワンダーランドですわ。こら、なんちゃらランドのたっかい入場料を払わんで丸儲けしましたなあ。おめでとうこざいます!
妻・夫  ‥‥‥。
精神科医  ‥‥いや、これは、ちょっとシニカル過ぎましたかな?
妻・夫  ‥‥‥。
精神科医  でも、そういうことです。‥‥あなた方、最近、空を見たことがありますか? 空の青さをしっかりと網膜に焼き付けたことがありますか? 白い雲を見て泣いたことがありますか? 風の揺らぎを感じたことがありますか? 土に触ったことがありますか? 大地のぬくもりや匂いを知ってはりますか?
妻・夫  ‥‥‥。
精神科医  まあ、ひょっとしたら、そのぐらい知ってるって言わはるかもしれません。そやけど、それはテレビや映画館で見るのとどんだけ違います?
妻・夫  ‥‥‥。
精神科医  最近は、4Kやら8Kやらめちゃくちゃ高精細のテレビが出て来てますよね。映画も、匂いがしたり、風が吹いたり、雨まで降るやつとかあるとか‥‥。
妻・夫  ‥‥‥。
精神科医  そやからね、私に言わせれば、現代社会は、全てがコンドームに包まれてるんです。コンドーム越しにしか世界を見られへんのですわ。感じられへんのですわ。
妻・夫  ‥‥‥。
精神科医  そやから、奥さんが感じられへん言わはるのんも、まあ、当然と言えば当然のことです。ちんちんだけやのうて、全てのもんからコンドームをはずさんとことには、世界を感じるなんて不可能なんですわ。‥‥私の言うてること、わかります?
妻  あ‥‥はあ。
夫  まあ‥‥何となく。
精神科医  ほんまですか?
妻・夫  え‥‥。
精神科医  ‥‥そやからですな、要するに「ナマでやってみよう」ってことです。

弁護士の声 そうだ、ナマでやってみよう!

妻・夫  ‥‥‥。
精神科医  これはねぇ、革命ですよ。性と自由の革命。これはねぇ、ものすごい危険思想です。でも、それなしに私たちは本当の自由を獲得することはできないんです。これなしに、あなた方の問題を真に解決することはできないんです。
妻・夫  ‥‥はあ。
精神科医  さあ、一緒に立ち上がりましょう。一緒に闘いましょう!我々は決してコンドームの奴隷なんかではありません! 今こそ、全てのコンドームを脱ぎ捨てる時なのです! こんなもの。こんなもの‥‥。

  精神科医、服を脱ぎ始める。

夫  え? ちょ、ちょっと、何をやってるんですか!
妻  先生! やめてください!
精神科医  何を言ってるんだ? さあ、君たちも脱ぎ捨てるんだ! さあ!
妻・夫  先生!

  上手に、ハルカが浮かび上がる。マスクと手袋。日傘も差している。

ハルカ  拝啓。お姉ちゃん、お元気ですか? 私は元気です。
あれから結構長い月日が経ちました。お姉ちゃんはいくつになりましたか? 私は十八歳です。来年も、再来年も、その次の年も、たぶん十八歳です。そのうち、お姉ちゃんは、トシを取り、子供が生まれて、孫が生まれて、もしかしたらひ孫も生まれて、そして皺だらけのおばあさんになって死んで行くのでしょう。私は、ずっとこのままで、百年も、千年も、ずっとこのままなんでしょうか? そうしたら、若いままの私の方がラッキーなんでしょうか? そんな気もするし、そうじゃない気もするし、とにかく何だか変ですね。

  中央に、妻が浮かび上がる。
  鈴(りん)を置いて、鳴らし、拝む。

妻  ハルカ‥‥。あなたは、今、どこで何をしていますか? お姉ちゃんが見えますか? 人は死んだらどこに行くんでしょう? よくドラマとかで、「空から私たちを見守っていて下さい」とか言ってるけど、ほんとに空にいるんですか? 一口に空って言ってもいろんな空がありますよね。雲が浮かんでいる所ですか? 成層圏の辺りですか? 大気圏? それとも宇宙空間? いや、そこまで行くと、何だか極楽とか天国というのとはイメージがずれてしまうような感じがするんですけど。真っ暗な宇宙空間に、阿弥陀如来とか観音菩薩とか毘沙門天とかが羽根のついたエンジェルとかと一緒にフワフワ浮かんでいるのを想像すると、シュールって言うか、何だか、世界観が変わってしまう感じがしますね。でも、もし、そうだとしたら、太陽のフレアを背にして浮かんでる千手観音とか、私、嫌いじゃないかも? すごくカッコイイんじゃないかな?

  下手に、ミオウが浮かび上がる。

ミオウ  To be,or not to be,that is the question. ほんと、冗談抜きでそれが問題なのよ。生きるべきか、死ぬべきか、なんていう悠長な問題じゃないの。生きているか、生きてないか、なんていうのでもない。「私はいるのか、いないのか」、そういう問題なのよ。そこんとこ、はっきりさせてもらわないと。
最近、児童虐待とか大流行だけど、ああいうのだったら、親に「生んだんだから責任持てよ!」って言えるかもしんないけど、まだ生んでもいないわけだから、そういうことも言えないわけ。そして、ひょっとして生まないってこともあるわけだから、ほんと困るのよねぇ。こういうの、何つーの?
‥‥ねぇ、ママ。いや、まだ生んでないから、ママになるかもしれない人かな? もう、ややこしいから、どっちでもいいんだけど‥‥とにかくこんなのイヤだよ。中途半端が一番イヤ。何かねぇ、フワフワしてて、グニャグニャしてて、つかみ所がないって感じ。自分の人生のはずなのに、自分の足で歩けないっていうか、自分で生きられないっていうか‥‥こういう経験したことある? ふつー、ないよね。あたしもこんなの初めてだから‥‥ほんと、やってらんないよ! 誰でもいいから責任取って!って感じ。

声  ここにその妹(いも)伊耶那美の命に問ひたまひしく、「汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、答へたまはく、「吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処(ひとところ)あり」とまをしたまひき。ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。故(かれ)この吾が身の成り余れる処を、汝(な)が身の成り合わぬ処に刺(さ)し塞(ふた)ぎて、国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまへば、伊耶那美の命答へたまはく、「しか善けむ」とまをしたまひき。

  妻が、ミオウの所へ行き、ひざまくらに寝かしつける。

妻  ♪ゆりかごのうたを カナリヤがうたうよ ねんねこねんねこねんねんこよ

  ミオウ、妻の膝の上で眠る。

ハルカ  ねえ?
妻  え?
ハルカ  ねえ、お姉ちゃん。
妻  え?
ハルカ  その子、誰?
妻  え?
ハルカ  誰なの?
妻  え? ‥‥さあ、誰なのかな?
ハルカ  え? わかんないの?
妻  うん。わかんない。
ハルカ  お姉ちゃんが生むかもしれない子でしょ?
妻  さあ。‥‥そうなのかな?
ハルカ  そうだって言ってたよ。
妻  だったら‥‥そうかもしれない。
ハルカ  そうかもしれないって‥‥。
妻  そうじゃないかもしれない。
ハルカ  え? そうなの?
妻  うん。
ハルカ  ‥‥そうなんだ。
妻  うん。
ハルカ  ‥‥そっか。
妻  ‥‥うん。

妻  ♪ゆりかごの上に びわの実がゆれるよ ねんねこねんねこねんねんこよ

声  約(ちぎ)り竟(を)へて廻りたまふ時に、伊耶那美の命まづ「あなにやし、えをとこを」とのりたまひ、後に伊耶那岐の命「あなにやし、え娘子(をとめ)を」とのりたまひき。おのおののりたまひ竟(を)へて後に、その妹に告りたまひしく、「女人(おみな)先だち言へるは良(ふさ)はず」とのりたまひき。然れども隠処(くみど)に興(おこ)して子(みこ)水蛭子(ひるこ)を生みたまひき。この子は葦船(あしぶね)に入れて流し去(や)りつ。次に淡島を生みたまひき。是(こ)も子の例(かず)に入らず。

ミオウ  ‥‥ヤダ。
妻  え?
ミオウ  イヤダ。
妻  え?
ミオウ  勝手に流さないでよ!
妻  え?
ミオウ  そんなのひどすぎるよ。なかったことにするなんて。初めからいなかったことにするなんて‥‥。そんなのあんまりだよ!
妻  え? いや‥‥それは‥‥。
ミオウ  責任取ってよ!
妻  え?
ミオウ  あなた、一応ママかもしれなかったんでしょ? あなたたち、親かもしれなかったんでしょ?
妻  え?
ミオウ  だったら、責任取ってよ!
妻  いや‥‥それは‥‥違うのよ。
ミオウ  何が違うの?
妻  いや‥‥だから。
ミオウ  最低だよ。
妻  え?
ミオウ  あなたは最低の母親だよ。あんたたちも最低。笑っちゃうぐらい最低だよ!
妻  いや‥‥だから。
ミオウ  もういやだ。こんなのいやだ。イヤーーーー!

  ミオウ、走り去る。

妻  ちょ、ちょっと、待って。
ハルカ  ‥‥‥。お姉ちゃん。
妻  ‥‥‥。ヒルコ。
ハルカ  え?
妻  ‥‥‥。

  上手のテーブルに、弁護士と夫。

弁護士  そうですか。なるほど。
夫  はい。
弁護士  家出ねぇ‥‥。
夫  はい。
弁護士  でも‥‥それって、本当に家出なんですかねぇ?
夫  え?
弁護士  そもそも、その子は、あなたたちの子供なんですか?
夫  いや‥‥それは‥‥。
弁護士  生まれてもいない子供なんでしょ?
夫  いや‥‥生まれてないって言うか‥‥。
弁護士  ‥‥生まれてない子供の扶養義務ということになると。
夫  ‥‥‥。
弁護士  民法の扶養義務は、確かに未成熟子を対象にしてはいますが、民法が規定する未成熟子というのは、未成熟な人間のことを言うのであって、まだ人間になっていない子供のことではありませんからねぇ。
夫  はあ。
弁護士  調べてはいませんが、判例も存在しないと思いますよ。
夫  はあ。‥‥だったら、どうしたらいいんでしょう?
弁護士  え? ‥‥どうしたらって?
夫  私は、親として、何をしたらいいんでしょうか? 何をするべきなんでしょうか?
弁護士  ちょっと。ちょっと落ち着いて下さい。‥‥あなたはまだ親ではないんでしょう?
夫  はあ‥‥ですが。
弁護士  放っておきましょう。
夫  え?
弁護士  確かにね、生まれるかもしれない、あるいは、生まれたかもしれない自分の子供に責任を持ちたいというあなたの姿勢は立派だと思います。自分が生んだ実の子を放置したり、虐待したりする殺伐とした現代社会の現状から考えると、ほんとに立派だ。立派すぎて表彰状をあげたいくらいだ。
夫  ありがとうございます。
弁護士  でもね、でも、それはもう立派すぎるんです。立派すぎておかしいぐらいだ。少なくとも現実の問題じゃない。もう、これは観念の問題だ。誤解を恐れずに言わせてもらえば、限りなく妄想に近いんです。あるいはファンタジーだ。
夫  そうでしょうか?
弁護士  はい、そうです。これは断言できます。
夫  はあ。
弁護士  まあ、あなたがファンタジーの世界に生きるというのは自由です。どうぞご勝手にして下さいと言うしかありません。しかし、それは現実の法体系になじむものではありません。そこのところはご理解いただけますよね?
夫  はあ‥‥まあ。
弁護士  ですから、放っておきましょう。それで、あなたが保護責任者遺棄に問われることもありませんから。‥‥そんな子は初めからいなかったんです。そうお考え下さい。
夫  はあ。‥‥ですが‥‥。
弁護士  まだ、何か?
夫  難しい法律のことはよくわかりませんが、その子は確かに生まれたかったみたいなんです。生きたかったみたいなんです。
弁護士  ‥‥それで?
夫  しかも、私たちは、まだ生まないと決めたわけではないんです。子供を作りたくないわけでもないんです。だったら、理不尽じゃないですか?
弁護士  理不尽?
夫  子供を作るかもしれない夫婦がいて、生まれたい子供がいて、それなのに生まれる前にその子は傷ついてどこかに消えてしまった。もしかしたら、私たちは、その子が生まれる権利を奪ってしまったかもしれないんです。そんなことをする権利が私たちにあるのでしょうか?
弁護士  権利ねぇ‥‥。あのね、弁護士がこんなことを言うのも何なんですが、何でも権利、権利って言うのはどうかと思いますよ。
夫  え? じゃあ、生まれる権利ってないんですか?
弁護士  いや‥‥だから‥‥。よく知りもしないで、素人が法律用語を振り回さないでいただきたい、と。
夫  はあ。

  精神科医が現れる。

精神科医  生まれる権利はありますよ。
夫・弁護士  え?
精神科医  その子は生まれたかった。しっかりと大地に足をつけて生きたかった。その権利を、何人も奪うことはできません。
弁護士  この人、誰ですか?
夫  ああ、私たちがお世話になっている精神科のお医者さんです。
弁護士  え? 医者?
精神科医  まだ、生まれていないとは言っても、生まれようとする意志は確実に存在します。その意志こそはリアルなのです。仮想現実の中で、自らの生を実感できない人間、すなわち生きていない生きている人間より、確実にリアルにあり得べき生を生きているのです。生きようとしているのです。
弁護士  何なの? この人?
精神科医  だから、探しに行かねばなりません。その子を。生まれさせなければならないのです。それがあなたの責任、いや、生きとし生ける者の責任です。
夫  え?
弁護士  おいおい、大丈夫なの? このおっさん。

  産科医が現れる。

産科医  ちょっとお待ちになって。
精神科医・夫・弁護士  え?
産科医  その前に、はっきりさせてもらいたいんだけど、女が先にオーガズムを感じたからって何がいけないの?
精神科医・夫・弁護士  はあ?
弁護士  また、変なのが出て来たよ。
夫  妻がお世話になっている産婦人科のお医者さんです。
弁護士  産婦人科ねぇ。
産科医  女が先に行っちゃったから、ヒルコが生まれて、それで流しちゃうってナンセンスじゃない? とんでもなく女性差別だし障害者差別だと思わない?
夫  はあ。
産科医  だいたいね、古代っていうのは、女性社会だったわけ。ほら、卑弥呼とかの時代だからさ。原始、女性は太陽だったって知ってる? ねぇ、知ってる?
夫  え‥‥いや。
精神科医  それぐらい知ってるよ。
産科医  だったらさあ、古事記っておかしいと思わない? 私、思うんだけどさ、これってね、男による女性社会へのクーデターじゃないの? だいたい古事記にしても日本書紀にしても、日本の神話って怪しいのよねぇ。大和朝廷だって、国譲りだって怪しい怪しい。何か陰謀の匂いがプンプンする。
精神科医  確かに怪しいかもしれんけど‥‥。
産科医  え? 何?
精神科医  こういう神話もあるで。
産科医  え?
精神科医  ヒルコは、海の彼方から戻ってくる。
産科医・夫  え?
精神科医  東の海の彼方からやって来る異形の来訪神となるんや。
産科医・夫  え?
精神科医  そやから、探しに行きましょう。いや、迎えに行きましょう。えべっさんを。
産科医  え? えべっさん?
精神科医  そう。流されたヒルコが海から戻って来てエビスになるんですわ。
産科医・夫  エビス?
精神科医  はい。
産科医  いや‥‥やっぱり私はエビスよりモルツの方がいいな。
精神科医・夫  はあ?
精神科医  さあ、行くの? 行かへんの?
夫  はい、行きます。
産科医  行くって。イクイク?!
精神科医  商売繁盛で、笹持って来い!
産科医・夫  商売繁盛で、笹持って来い!
精神科医  商売繁盛で、笹持って来い!
産科医・夫  商売繁盛で、笹持って来い!

  産科医、精神科医、夫、去る。

弁護士  何なの? あいつら? ‥‥まあ、オレはハイネケンだな。フフ‥‥。

  弁護士、立ち上がり、去る。

  ミオウとハルカ。
  ミオウがビニールをかざしている。

ハルカ  何してんの?
ミオウ  ‥‥‥。
ハルカ  何見てんの?
ミオウ  ‥‥‥。見えない。
ハルカ  え?
ミオウ  何か見えることは見えるけど、よく見えない。
ハルカ  え? 何、それ?
ミオウ  ビニール‥‥みたいなの。
ハルカ  ビニール? ふーん。
ミオウ  たぶん、コンドーム。
ハルカ  え!
ミオウ  砂浜に捨ててあった。
ハルカ  それって‥‥。
ミオウ  大丈夫。ちゃんと洗ったから。
ハルカ  でも‥‥。
ミオウ  それをハサミでチョキチョキって。
ハルカ  ‥‥‥。
ミオウ  ウソウソウソ。ただのビニールだから。
ハルカ  ‥‥‥。
ミオウ  ほんと、ビニールだよ。これ。
ハルカ  ‥‥‥。
ミオウ  やっぱり見えないよねぇ。
ハルカ  ‥‥あなた、何考えてんの?
ミオウ  見る?
ハルカ  え?
ミオウ  ハルカちゃんも見てみる?
ハルカ  ‥‥いい。
ミオウ  見てごらんよ。おもしろいよ。
ハルカ  だから、いいって。
ミオウ  え? どうして?
ハルカ  どうしてって‥‥。
ミオウ  これ、ちょっとハルカちゃんごっこなんだけどな。
ハルカ  え? 何それ?
ミオウ  ハルカちゃんの見てる、ううん、生きてる世界を体験しようと思って。
ハルカ  やめて。そんなのに勝手に人の名前使わないでよ!
ミオウ  いいじゃん。
ハルカ  やめて! 気持ち悪い!
ミオウ  じゃ、やめる。‥‥じゃ、メンヘラごっこ。
ハルカ  ‥‥ケンカ売ってるの?
ミオウ  いや‥‥別に。
ハルカ  ‥‥‥。
ミオウ  ほら、コンドームって膜でしょ?
ハルカ  え。
ミオウ  いや、これはビニールだけどさ。
ハルカ  ‥‥‥。
ミオウ  膜って言うか、バリア。漏れないようにね。
ハルカ  ‥‥‥。
ミオウ  ほら、ハルカちゃんもバリア張ってんじゃん?
ハルカ  え?
ミオウ  マスクとか手袋とかサンバイザーとか、それバリアなんでしょ? 外の世界に触れないようにさ。外の世界から攻撃されないようにさ。
ハルカ  ‥‥‥。
ミオウ  確かにね、外の世界って恐いもんね。何が隠れてるかわかんない。どこから攻撃されるかわかんない。
ハルカ  ‥‥‥。
ミオウ  ネットとかでさ、何気に書いてたら、炎上したりすんじゃん?
ハルカ  え?
ミオウ  意味なくディスりたがるヤツとかウジャウジャいてさ。
ハルカ  ‥‥‥。
ミオウ  まあ、そういうのは、ネットだけでもないけどさ。
ハルカ  ‥‥うん。
ミオウ  だから、メンヘラになる人の気持ち、全然わかんないというわけでもないよ。‥‥ミオウはならないけど。たぶん。
ハルカ  ‥‥‥。
ミオウ  でもさ、そうやって守ってばっかいたらさ、確かにやられにくいんだろうけどさ、やりにくくもあるわけじゃん? その辺難しいよね。まあ、要は、バランスみたいなもんなんだろうけど。
ハルカ  ‥‥‥。
ミオウ  別にやりたくもない‥‥か。
ハルカ  ‥‥‥。やりたいって‥‥何を?
ミオウ  たとえば、生きるとかさ。
ハルカ  え? 生きる?
ミオウ  ああ、ハルカちゃんは、それでも一応生きてるもんね。‥‥あ、いや、死んでる、か。アハハハ。おっかしいね。アハハハ。
ハルカ  ‥‥‥。

  しばしの間。

ハルカ  ‥‥あのさ。
ミオウ  え? 何?
ハルカ  ミオウはさ、ヒルコってやつなの?
ミオウ  ヒルコ? ああ‥‥。うーん、よくわかんない。
ハルカ  そっか。
ミオウ  うん。‥‥あれって、昔の神様の話でしょ?
ハルカ  うん。たぶん。
ミオウ  ミオウは神様じゃないよ。
ハルカ  そっか。‥‥そだね。
ミオウ  うん。

  ハルカ、マスクと手袋とサンバイザーをはずす。

ミオウ  あれ? どうしたの?
ハルカ  ちょっと気分転換?
ミオウ  へぇ、そうなの。
ハルカ  うん。
ミオウ  ふーん。
ハルカ  ‥‥何だか、スースーする。
ミオウ  へぇ、そうなの?
ハルカ  うん。変な感じ。
ミオウ  ふーん。そうなんだ。
ハルカ  ‥‥ミオウごっこ。
ミオウ  え?
ハルカ  さっきの仕返し。
ミオウ  何それ?
ハルカ  ミオウの生きてる世界を体験してみようと思ってね。
ミオウ  何だよ、それ! バッカみたい。アハハハ。
ハルカ  アハハハ。
ミオウ  ‥‥でも、それじゃダメだね。全然ダメ。
ハルカ  え? どうして?
ミオウ  だって、宙ぶらりんじゃないから。
ハルカ  宙ぶらりん?
ミオウ  ミオウ、生まれてもいないし、生きてもいないし、いるのかいないのかもわかんないから。‥‥そういうの、わかんないでしょ?
ハルカ  そっかなあ?
ミオウ  そうだよ。ハルカちゃん、しっかり死んでるんだから。
ハルカ  しっかり死んでるか‥‥。それ、何かいいね。
ミオウ  でしょ?
ハルカ  うん。‥‥でも、だったら、ミオウは、しっかり宙ぶらりんじゃん?
ミオウ  ええ? しっかり宙ぶらりん? ‥‥それは、あんまりよくないな。
ハルカ  かなあ?
ミオウ  うん。‥‥宙ぶらりんはね、やっぱり悲しいよ。
ハルカ  そっか。‥‥悲しい、か。
ミオウ  うん。‥‥悲しい。切ない。さびしい。

  間。

ハルカ  いのちなき砂のかなしさよ さらさらと握れば指の間より落つ
ミオウ  何、それ?
ハルカ  学校の教科書に載ってた。石川啄木の歌。
ミオウ  石川啄木?
ハルカ  いたく錆びしピストル出でぬ 砂山の 砂を指もて掘りてありしに
ミオウ  それも?
ハルカ  うん。石川啄木。
ミオウ  へぇ。砂が好きな人なんだ。
ハルカ  そうかもしれない。
ミオウ  ピストルって、その人ギャングだったの?
ハルカ  そうかもしれない。
ミオウ  盗んだバイクで走り出したりして。
ハルカ  うん。そうかもしれない。
ミオウ  あぶねぇ。あぶねぇ。
ミオウ・ハルカ  アハハハハ。

  しばしの間。
  ミオウ、ビニールを取り出して、吹く。

ミオウ  変な音。
ハルカ  何やってんの?
ミオウ  (ビニール越しに)ハルカちゃーん。‥‥やっぱり変な音。
ハルカ  もう!
ミオウ  ハルカちゃんもやってみる?
ハルカ  ええ?
ミオウ  大丈夫。ゴシゴシ洗ったから。
ハルカ  え。
ミオウ  はい、どうぞ。
ハルカ  え‥‥。でも‥‥。
ミオウ  はい。
ハルカ  (恐る恐る吹く)
ミオウ  変な音でしょ?
ハルカ  ‥‥うん。(ビニール越しに)ミオウー。
ミオウ  (ビニールを取り)はーい。
ハルカ  ばっかみたい。
ミオウ  (ビニール越しに)だよねー。
ハルカ  ほんと、バカだ。
ミオウ  (ビニール越しに)バカと言うやつがバカだー。
ハルカ  アハハハ。
ミオウ  アハハハ。
ハルカ  (ビニール越しに)馬鹿野郎!
ミオウ  (ビニール越しに)死んじまえー!
ハルカ  もう、死んでるって。
ミオウ  あ、そっか。
ハルカ  アハハハ。
ミオウ  アハハハ。

  夫と妻がテーブルをはさんで座っている。

夫  どうする?
妻  どうするって?
夫  だから、見つからないんだよ。
妻  見つからないって? あの子?
夫  うん。
妻  ふーん。そうなんだ。
夫  そうなんだ‥‥って。
妻  だって、そう言うしかないじゃない?
夫  それって、ちょっと無責任じゃないか?
妻  え? どうして?
夫  だって、お前の子っていうか、オレたちの子だろ?
妻  違うわよ。
夫  え?
妻  だから、生まれてもいない子でしょ?
夫  ああ‥‥今のところはな。
妻  だったら、誰の子でもないじゃないの。
夫  いや‥‥でもな。
妻  そんなに気になるんだったら、電柱に張り紙でもしとけば?
夫  え?
妻  そうか、ネットで「探しています。拡散希望」とか。
夫  おい、それじゃまるで犬とか猫みたいじゃん。
妻  いや、行方不明の老人とか迷子の子もそうやって探してるから。
夫  いや、だから、そういうのとは違うから。
妻  何が違うのよ?
夫  いや‥‥だから‥‥。

  気まずい沈黙。

妻  だったらさ。
夫  え?
妻  だったら、やっぱり別れましょ。私たち。
夫  え? 何言ってんの?
妻  別れちゃえば、子供も生まれないわけだし。
夫  え? おい、ちょっと待てよ。
妻  そしたら、あの子を探す必要もなくなるでしょ?
夫  おい。それは無茶苦茶だろ?
妻  何が無茶苦茶よ?
夫  だって‥‥ほら、そうなったら、あの子はどうなるわけ?
妻  え?
夫  生まれなくなるじゃない?
妻  いや、だから、さっきからそう言ってんじゃん。
夫  そんなの、かわいそうだろ?
妻  はあ?
夫  あの子は生まれたいんだよ?
妻  そんなの知らないわよ。
夫  いや、そんな言い方はないだろ?
妻  生まれたかったら、どこかで勝手に生まれたら? 別に私たちの子になりたいってわけでもないんでしょ?
夫  いや、それはわからないよ。オレたちの子供になりたいって熱望してるのかもしれない。
妻  何よ、それ? あの子がそんなこと言ってたの?
夫  いや‥‥そうかもしれないって。
妻  あのね。これだけははっきり言っておくけど‥‥。
夫  え? 何だよ?
妻  あなたのそういう所について行けないの。私は。
夫  そういう所って?
妻  弁護士さんにも言われたんでしょ? あなたはファンタジーの世界に生きてるって。
夫  ‥‥‥。
妻  悪いけど、私、昔からファンタジーは好きじゃないの。お生憎様。
夫  ‥‥急に、そんなこと言われても。
妻  ほら、よく言うじゃない。男は夢見る夢子ちゃんで、女はリアリストだって。
夫  え? そんなの聞いたことないよ。
妻  え? そんなことも知らないの? 三十年間何して生きて来たの? ずーっと夢ばっかり見てたわけ?
夫  いや‥‥。
妻  ひょっとして、女の子は、ずっとお花畑の中で暮らしてるとか思ってたの?
夫  いや‥‥だから‥‥。
妻  じゃあ、女の子がどうしてリアリストなのか、知ってる?
夫  え?
妻  知りたい?
夫  ‥‥ああ、うん。
妻  それはねぇ‥‥女は子供を産んで育てなきゃいけないからよ。
夫  え?
妻  子供はねぇ、おっぱい飲まなきゃ死んじゃうのよ。夢や霞じゃ生きられないの。わかる?
夫  ‥‥お前、やっぱり子供がほしいのか? ‥‥だったら。
妻  バカ! そういうこと言ってんじゃないの!
夫  え‥‥。
妻  私が言ってるのは、本物の子供。泣いてわめいてウンコしておしっこする本物の子供。ガチガチのリアルな子供。あなたの妄想の子供とは違うの。
夫  妄想の子供って‥‥。
妻  だったら、どこにいるのよ? 今すぐここに連れて来てよ。
夫  いや‥‥だから‥‥。
妻  あの子はね、あなたの頭の中にしかいないのよ。
夫  いや、そうじゃない。あの子はほんとに生まれたがってるんだ。それは事実なんだよ。
妻  生まれたがってるけど生まれてない子供なんて、この世にはいないのよ!
夫  だって、お前は見たんじゃないのか?
妻  見たわよ。でも、あれは幻よ。
夫  え。
妻  人間はね、幻だって見るわ。まるで本物みたいなリアルな幻をね。でも、いくらリアルでもそれは幻なの。私は幻を信じない。女は夢を信じない。
夫  え‥‥。

  しばしの沈黙。

夫  ‥‥わかったぞ。
妻  え?
夫  お前はそうやって、あの子を利用して離婚の口実にしようと思ってるんだろ?
妻  はあ? 何言ってるの?
夫  オレは騙されないからな。その手には乗らないからな。
妻  だから、何を言ってるの?
夫  オレは決めたぞ。‥‥お前とは別れない。
妻  え?
夫  離婚はしない。‥‥決めたからな。
妻  はあ?
夫  オレには、あの子を生まれさせる義務があるんだ。それは、お前も同じだ。オレたちはあの子を生まれさせなければならない。だから、離婚はあり得ない。
妻  それって、どういう理屈よ?
夫  お前は、あの子にこの世界を見せてやりたいとは思わないのか? 光を風をあたたかさを、その目で見せてやりたい、その肌で感じさせてやりたいとは思わないのか? お前はあの子の母親なんだろう?
妻  母親なんかじゃないわよ!

  木槌の音。

精神科医  静粛に。
夫・妻  え。
精神科医  それでは、これより開廷します。
夫・妻  え。
精神科医  それでは、検察官。
産科医  はい。
そもそも、行くとか行かないとか、そういうのにこだわる考え方がね、ナンセンスだと思うんですよね。愛があったら行けるとか、愛がないから行けないとか、行けないセックスは本物のセックスじゃないとか、まことしやかに言う風潮とかが大昔からあるんだけど、そんなの誰が決めたのかって言いたいわけ。そんなのどうだっていいじゃん! そう思うわけ。そういうのがね、強迫観念になってどれだけ女性を縛り付けてるのかってことを考えてほしいのよね。それはね、昔、石女(うまずめ)とか言ってたのと何ら変わんないわけよ。あ、石女(うまずめ)って知ってる? 「イシオンナ」と書いて「うまずめ」って読むのよね。え? わかんない? だから「石の女」、いや、だから、石って岩石の石、ロックよね、それで女、ガール、つまりロックガール。いや、ロックガールって言ってもロックンロールガールじゃないのよ? あら、ロックンロールガールって、案外かっこいいんじゃない? 行けてないかしら? ねえ、どう思う?
精神科医  え? オレ?
産科医  うん。
精神科医  えー? そんなん知らんがな。
産科医  ええ? ‥‥じゃあ、あなたは?
弁護士  ザッツ・フェイクニュース!
産科医  ‥‥‥。何よ、それ? つまんないわね。‥‥それで、何の話だっけ? あれ? 忘れちゃった。アハハハ。はい、そこのあなた!
夫  え? 私ですか?
産科医  うん。私。
夫  あのう、たぶん、ロックンロールガールじゃないかと‥‥。
産科医  え? ロックンロールガール? 何よ、それ?
夫  いや、あなたがおっしゃいました。
産科医  え、ウソ! 私そんなこと言った? ほんとに言った? ねぇ?
精神科医  だから、知らんがな。
夫  ええ。おっしゃいました。確かに。
産科医  へぇ、そうなんだ。びっくりー。‥‥それで、ええっと、何だっけ? ‥‥ええっと‥‥。あ、思い出した! 「うまずめ」よ、「うまずめ」。もう、あなたが変なこと言うから、ややこしくなっちゃったじゃない!
夫  ええ? ああ、すみません。
産科医  そうそう、「うまずめ」よね。「うまずめ」って言うのは、あれよ、「三年生まずは去れ」って、あれのこと。結婚して、三年間子供ができなかったら離縁しろって。これって、ひどくない? ねえ、あんた、そう思わない?
弁護士  ザッツ・フェイクニュース!
産科医  何よ? あんた、それしか言えないわけ? つまんないわね。じゃあ、も一回、あなた。
夫  あ、私?
産科医  そう、私。
夫  そうですね。それはひどいと思います。
産科医  でしょう? それなのにあなたは離婚を要求してるんでしょ? それってどうなの? 良心の呵責とか感じないわけ?
夫  え? それ、私に言ってるんですか?
産科医  そうよ。私よ、私。
夫  いや、それは誤解です。離婚を要求しているのは私じゃありません。妻です。
弁護士  ザッツ・フェイクニュース!
産科医  あら、そうだったかしら?
夫  ええ。
産科医  じゃあ、妻、どうぞ。
妻  え? ‥‥あの? 何を答えたらいいんですか?
産科医  さあ、何だっけ? わかんない。もう、何でもいいや。
妻  ええ? ‥‥何でもいいんですか?
産科医  うん。言ってみそ。
妻  じゃあ、言います。‥‥カエルの卵ってありますよね。あのグネグネしてる気持ち悪いやつ。ゼラチンみたいなのの中に黒い点みたいなのがいっぱいあって、あれが子供の時から嫌いだったんです。私、わりと田舎の方で育ったもんだから、学校の帰り道に田んぼとかあったんですが、春とかに田んぼをボーッと眺めてたら、あれを見つけちゃうこととかあって、その時は「うわ、最悪だ」って思いました。
産科医  うん。わかるよ、わかる。あれ、気持ち悪いよね。
妻  はい。‥‥そうなんですが、だんだん大きくなって行くうちに、何だか似てるような気がして来たんです。
産科医  え? 何が?
妻  そのカエルの卵と私が。
産科医  え?
弁護士  ザッツ・フェイクニュース!
精神科医  はい。それ、重要証言です。記録して。‥‥記録して。そこのあなた。
夫  え? 私ですか?
精神科医  はい、そうです。記録して。
夫  記録って言われても‥‥紙とかないんですけど?
精神科医  何でもいいから記録して。
夫  は、はい。‥‥ええっと、カエルと私は似ている‥‥。
精神科医  違う! カエルの卵! 記録は正確にして下さい。
夫  あ、すみません。
妻  何だか、私と外の世界が繋がっていないって言うか‥‥世界に直接触れられないって言うか‥‥あのゼラチン質の中に自分がいるみたいな、そんな感じなんです。
産科医  と言うと?
妻  友達とかがすごく盛り上がってる時でも、私は盛り上がれないで冷めているんです。みんなが笑っている時も、うまく笑えないんです。もちろん、みんなに合わせて笑ってるふりはしますけどね。何でみんなが笑っているのか、よくわかんないんです。
産科医  なるほど。
妻  それだけじゃありません。例えば、私が、みんなに注目されたり、褒められたりしても、何だか他人事なんです。自分のことじゃないみたいなんです。この人と結婚した時もそうでした。結婚式で、みんなから祝福を受けて、友達から「おめでとう」って言われて、写真とか撮られている最中でも、何だか、それを遠くから見ているみたいで。まるで観客席に座ってるみたいな感覚なんです。何だったら、祝福を受けている私自身に向かって「おめでとう」って言ってあげられるみたいな、そんな感覚なんです。
産科医  うん。
妻  考えてみると、私、本気で泣いたことがないんです。つまんないどうでもいいことに泣いたりはするんですが、自分自身の悲しみで泣いたことがないんです。
学生時代に、妹が死にました。私たちは結構仲のいい姉妹だったんです。その妹が死んだ時も、正直言ってそんなに悲しくありませんでした。「ああ、死んだんだ」って、そういう重たい事実を受け止めるみたいな感覚ははあったんだけど、でも、それが悲しみに繋がることはありませんでした。それで、むしろそれがショックでした。「お前は何て冷たい姉なんだ? 何て冷たい人間なんだ?」って。

  木槌の音。

精神科医  はい。それでは、ここで証人に入廷してもらいます。証人、入って来て下さい。

  ハルカが入って来る。

妻  ハルカ。
ハルカ  お姉ちゃん。
精神科医  えー、被告人は、自分がカエルの卵みたいな感じで、あなたが死んだ時も悲しくなかったと言っていますが‥‥。
妻  え? 私は被告人なんですか?
精神科医  いや、まあ、とりあえずということで。被告人と言っても、そんなに深い意味はありませんから、気にしないで下さい。
妻  とりあえず被告人って、そんな‥‥。
精神科医  証人は、そのことに対する証言をして下さい。
ハルカ  そのことに対して何を言えばいいんですか?
精神科医  さあ?
ハルカ  え?
産科医  何でもいいから。ほら、実はお姉ちゃんのことをずっと憎んでたとか、お姉ちゃんにいじめられてたとか、実は私たちは本当は姉妹じゃなかったとか、それっぽいことを言えばいいのよ。
ハルカ  はあ‥‥。
精神科医  証人にお願いがあります。証人はマスクと手袋とサンバイザーを着用していますが、手袋はとにかくとして、マスクとサンバイザーは法廷内でははずしていただきたいのですが‥‥。
ハルカ  え? ‥‥それは‥‥どうしてもですか?
精神科医  それには宗教的な理由でもあるのですか?
ハルカ  いいえ‥‥ありません。ですが‥‥。
精神科医  ですが、何でしょう? それは、本審理に関係する事情ですか?
ハルカ  それは‥‥。関係するかもしれないし、関係しないかもしれません。
精神科医  そうですか‥‥。わかりました。(木槌を叩き)証人のマスクとサンバイザーの着用を特別に認めます。
弁護士  裁判長! 異議あり!
精神科医  弁護人、どのような異議ですか?
弁護士  ザッツ・フェイクニュース!
精神科医  異議を却下します。
ハルカ  私とお姉ちゃんは、仲良しです。でも、性格は正反対です。お姉ちゃんは、犬が好きです。私はネコが好きです。お姉ちゃんは友達がたくさんいます。私は友達がいません。お姉ちゃんは旅行や遊びが好きです。私は家と本が好きです。お姉ちゃんはおしゃべりが好きです。私はできれば人と話したくありません。お姉ちゃんは太陽が好きです。私は月が好きです。お姉ちゃんはイタメシが好きです。私はお茶漬けが好きです。お姉ちゃんはすぐに文句を言います。私はいつもがまんをします。
でも、もしかすると、一周回って似ているような気もするのです。
お姉ちゃんは上手に笑ってみせます。私は笑えません。お姉ちゃんは幸せを演じます。私は不幸せを持て余します。お姉ちゃんはお姉ちゃんのふりをするのが上手です。私は妹のふりがうまくできません。お姉ちゃんはたぶんうまく生きられない人なのだと私は思います。私はうまく死んでないような気がします。
そんな二人は、破れ鍋に綴じ蓋なのか、あるいはひょっとして似た者同士なのか、その辺はよくわかんないのだけれど、とっても仲良しです。たぶんお互いにわかり合えないことを知っているから気が合うのだと思います。
精神科医  それでは、弁護人。証人尋問をお願いします。
弁護士  ザッツ・フェイクニュース!
精神科医  ‥‥‥。それだけですか?
弁護士  ‥‥‥。
精神科医  それでは、検察官。尋問を。
産科医  はい。‥‥あなたは、死んでるんですよね?
ハルカ  はい。たぶん、一応。
産科医  それで、あなたの死因は?
ハルカ  え‥‥。
産科医  お姉さんに殺されたりしていませんか?
ハルカ  え‥‥。
産科医  直接殺されたということでなくても、結果的に死に追いやられたとか? そういうこともありませんか?
ハルカ  ‥‥‥。
産科医  どうですか? そこのところ?
ハルカ  それは‥‥。
産科医 言えない事情でもあるんですか?
ハルカ  いや、だから‥‥。
精神科医  証人には黙秘権があります。行使しますか?
ハルカ  はい。‥‥黙秘します。
産科医  ‥‥‥。わかりました。質問は以上です。

  木槌を鳴らす。

精神科医  それでは、これにて結審します。
夫  早!

  木槌を鳴らす。

精神科医  判決を申し渡す。
夫  早!
精神科医  主文。被告人を絞首刑に処す。
妻  え。
夫  え!
弁護士  デス・バイ・ハンギング!
妻  ちょっ、ちょっと待ってよ! とりあえず被告人って言ったじゃない? 絞首刑って、死刑って何よ! こんなの認められないわ!
精神科医  ‥‥‥。奥さん。奥さん。
妻  何!
精神科医  冗談ですがな。冗談。
妻  え?
精神科医  いっぺん言うてみたかったんですわ。「絞首刑に処す」って。
弁護士  デス・バイ・ハンギング!
妻  あんたは黙っててよ!
弁護士  ‥‥‥。
妻  ‥‥あのね、世の中には言っていい冗談と、悪い冗談があるでしょ?
精神科医  ‥‥いやあ、えろうすんません。
妻  ごめんで済むなら警察はいらないわよ!
精神科医  ほんまかんにん。‥‥申し訳ありませんでした。死刑は取り消します。(土下座)
弁護士  ザッツ・フェイクニュース!
妻  ‥‥‥。
精神科医  それでは、改めて判決を申し渡す。
主文。被告人を無期生存に処す。
妻  え? 何それ? 無期生存って何よ?
精神科医  いや、だから、無期生存。まあ、簡単に言うと、生きられるだけ生きる。
妻  そんなこと言われなくても、生きられるだけ生きるから。
産科医  いや、あなたじゃないから。
妻  え?
産科医  被告は生まれ得ぬ子だから。
妻  え? もしかして、あの子なの? でも、私が被告だったんじゃないの?
精神科医  だから、とりあえず被告人って言ったでしょ?
妻  え‥‥。そんな無茶苦茶でいいわけ?。
弁護士  ザッツ・ライト! それでいいのだ!
夫・ハルカ  やったー! やったぞー! やったー!

  夫とハルカ、「勝訴」と大書した紙を掲げて走り回る。
  中央に、ハルカ。インタビューする夫。
  カメラのストロボ。

夫  今のお気持ちは?
ハルカ  もう、胸が一杯で言葉になりません。
夫  本当にここまで長かったですからね。
ハルカ  ほんとに‥‥ほんとに長かったです。でも、がんばってよかったです。(泣く)
夫  でも、お母さんの方が上告する可能性もありますが。
ハルカ  お母さん。お願いですから、そんなことはしないで下さい。いろいろあるでしょうが、ミオウちゃんの幸せを第一に考えてあげて下さい。お願いします。
夫  それでは、最後にひと言。
ハルカ  ミオウ、ほんとによかったね。一緒にくら寿司に行こうね。シャリカレー食べようね。
夫  ありがとうございました。現場からは以上です。

  木槌の音。

精神科医  それでは、執行手続きにかかって下さい。
産科医  (ハンドスピーカーで)それでは、これより、日本国憲法第二十五条第二項ならびに生活保護法第一条第六項の規定に基づき、強制代執行を執り行う。
弁護士  母体状態よーし! 陣痛よーし!
産科医  へその緒の準備!
夫・ハルカ  はい!

  夫とハルカがロープを上手袖から引き出してくる。

夫・ハルカ  へその緒の準備できました。
弁護士  へその緒準備よーし! 逆子確認よーし! 巻き付き確認よーし!
産科医  それでは、へその緒を握れ!

  全員、ロープを握る。

弁護士  へその緒握りよーし!
産科医  それでは、これより‥‥
ミオウ  やめて!
全員  !

  ミオウが、上手から出て来る。

ミオウ  やめて!
全員  え?
夫  何を言ってるんだ?
ミオウ  やめて‥‥。
ハルカ  ミオウ‥‥。あなた、生まれたかったんじゃないの?
ミオウ  うん。生まれたかったよ。
夫  じゃあ。
ハルカ  じゃあ。
ミオウ  (首を振って)だけど、違うんだ。
夫  え? 違うって、何が?
ミオウ  よくわかんないけど、何か違うんだよ。
夫  え?
ハルカ  言ってることがわかんないよ。
ミオウ  ミオウにもよくわかんない。わかんないけど、今生まれたらいけないような気がする。ここに生まれたらいけないような気がする。
夫  何を言ってるんだ?
ハルカ  それはね、ただ恐いだけよ。知らない所に行く時は、新しい世界に出る時は、誰でもそうだから。‥‥心配ないから。
ミオウ  風が見えないんだ。光が聞こえないんだ。大地が笑わないんだ。空が歌わないんだ。川が泣かないんだ。影が‥‥影が消えたんだ。私の影も。
夫・ハルカ  え?
ハルカ  それって、どういうこと?
ミオウ  わかんない。わかんないけど、何かが違う。それだけはわかるんだ。‥‥だから、今生まれたらダメだと思う。ここに生まれたらダメだと思う。
産科医  (ハンドスピーカーで)はい、そんなわがまま言ってたらキリがありませんよ。生まれるのにいいも悪いもありません。早く元気に生まれて勝手に生きて下さい。生きるのは自己責任です。早く大人になって、がんばって働いて、税金を払って国庫に貢献しましょう。
弁護士  陣痛促進剤投入よーし! 出産十秒前、九、八、七、六、五、四、
ミオウ  (ハンドスピーカーで)やめろー!
全員  !
ミオウ  (ハンドスピーカーで)不当出産はんたーい! 強制出産をやめろー!
産科医  (ハンドスピーカーで)ほら、出ましたね。何でも反対派の諸君。
こちらは警視庁だ。君たちの革命は必ず失敗する。なぜなら君たちの革命はニセモノだからだ。
弁護士  ザッツ・フェイクニュース!
産科医  (ハンドスピーカーで)君たちの革命は地に足がついていない。それは妄想だ。ファンタジーだ。
弁護士  ザッツ・フェイクニュース! ザッツ・フェイクニュース! ザッツ・フェイクニュース!
ミオウ  (ハンドスピーカーで)うるさい! 黙れ! 不当な弾圧は許さないぞー!
産科医  (ハンドスピーカーで)君たちは完全に包囲されている。無駄な抵抗はやめなさい。君たちの要求は黙殺する。何が何でも出産だ。何が何でも生んでやる!
ミオウ  (ハンドスピーカーで)我々は闘うぞー! 最後の最後まで闘うぞー!
産科医  出産用意!
弁護士  出産用意よーし! 十、九、八、七、六、五、
妻  待って!
全員  え?
妻  ちょっと待って。お願い。
精神科医  ‥‥奥さん。
夫  ‥‥お前。
妻  話を聞いてやってもらえませんか? その子の話を。それからでも遅くはないんじゃありません? それぐらいの時間はあるでしょう?
夫  ‥‥お前。
妻  お願いします。(頭を下げる)
全員  ‥‥‥。
産科医  どうします?
精神科医  うーん。
産科医  裁判長が決めて下さい。
精神科医  わかってる。それはわかってる。

  しばしの間。

精神科医  ‥‥おーい、君。
ミオウ  ‥‥‥。
精神科医  君だよ、君。生まれたかったけど生まれたくないって言ってる被告人の君だよ。
ミオウ  え? あたし?
精神科医  そう、君だ。
ミオウ  ‥‥何?
精神科医  さっき、何か変なこと言うてたな? 風が見えんとか、影がないとか?
ミオウ  ああ、うん。
精神科医  それは何や? 違和感みたいなもんか?
ミオウ  うーん、よくわかんない。
精神科医  なんか気色わるうって感じか?
ミオウ  うーん。かな?
精神科医  ‥‥そうか。
ミオウ  うん。
精神科医  ‥‥これは、ちょっと、調べてみる価値があるかもしれへんな。
産科医  調べるって、何を?
精神科医  へその緒が、ほんまにあの子に繋がってるかどうかや。
産科医  え?
精神科医  そこんとこがちょっと、かなり気にかかるんや。いわば胸騒ぎの茅ヶ崎やな。
産科医  ‥‥わかりました。
おーい、誰か、へその緒の根っこを見て来い!
弁護士  了解! ラジャー!

  弁護士、上手袖に走り去る。

精神科医  ‥‥奥さん。
妻  え?
精神科医  どうしてあの子の味方なんかするんです? あなたはあの子が生まれるのに反対じゃなかったのですか?
妻  別に反対なんかじゃありません。別に賛成でもないですが。ただ‥‥。
精神科医  ただ、何です?
妻  捨て猫でも、三日飼うと情が移るって言うじゃありませんか? 自分のおなかを痛めた訳でもないのに、私の子が生まれるとか生まれないとか端で騒いでるのを見てると、何か変な気分になっちゃって。‥‥子宮が騒ぐんですかね?
精神科医  ほお、子宮が騒ぐ、ですか‥‥。
妻  ええ。

  弁護士が戻ってくる。

弁護士  ただ今、戻りました。
産科医  で、どうだった?
弁護士  へその緒は‥‥へその緒は、あの子供に繋がってはいませんでした。
産科医  何!?
弁護士  はい。
産科医  じゃあ、どこに繋がってるんだ?
弁護士  地球です。
産科医  何? 地球!
弁護士  はい。
精神科医  ‥‥やはり、そうか。
産科医  え? どういうことです?
精神科医  あの子、影がないって言うてたやろ?
産科医  え? ‥‥ええ。
精神科医  何でやと思う?
産科医  え? さあ。
精神科医  それは、実体がないからや。
産科医  実体?
精神科医  今の地球には実体がないんや。リアルがないんや。実体のないところには、影はない。光がなければ影はできん。
産科医  どういうことです?
精神科医  今の地球は仮想現実なんや。ヴァーチャル空間の中にあるんや。いくら本物らしく見えていたとしても、それはやっぱりニセモンや、バッタもんや。バッタもんには影はできひん。
弁護士  ザッツ・フェイクニュース!
精神科医  ‥‥あの子はそれを感じてたんやな。その気色悪さを。
産科医  あの‥‥おっしゃってることがよくわからないのですが‥‥。
精神科医  あんたも医者やったら、陰陽五行の説というのは知ってるやろ?
産科医  ええ、一応は。東洋医学ですね。
精神科医  陰の気と陽の気。陰のエネルギーと陽のエネルギー。影と光。女と男。それらがきっちり合わさってこそ、初めて新しいもんが生まれる。いわば、アウフヘーベンやな。
産科医  ええ。
精神科医  それがバッタもんやとしたら、どうや? バッタもんにエネルギーはあるか? バッタもんが何かを生み出せるか?
産科医  それは‥‥。
妻  私がカエルの卵の中にいるのもそのせいなのでしょうか?
精神科医・産科医  え?
妻  私は、私の人生の主人公になれないのです。私は、私の物語を歩けないのです。私は、私のストーリーを語れません。私は、私のストリートを歩けません。
夫  ‥‥お前。
精神科医・産科医  ‥‥‥。
妻  私の人生はニセモノなのでしょうか? 私は本当は生きていないのでしょうか?
精神科医・産科医・夫  え。
妻  そんなニセモノの私が子供を産んでいいのでしょうか? 生まれてくるあの子もニセモノなのでしょうか?
精神科医  大丈夫です。ご心配には及びません。
妻  え?
精神科医  なぜなら、生まれてくるのはあの子ではありませんから。
妻  え? それじゃ、誰なんです?
精神科医  それは人ではありません。
妻  え?
精神科医  生まれるのは、星です。
妻  え? 星?
精神科医  あなたのそばには、死に行く者と、生まれ来る者がいるではありませんか? 死と生。これこそが陰陽です。その重なりの中から新しい星が生まれるのです。
妻  ‥‥‥。
ミオウ  成り成りて成り余れるところを
ハルカ  成り成りて成り合わぬところに
ミオウ・ハルカ  さしふたぎて、星を生みなさむと思ふはいかに
精神科医  そして、その新しい星とは、よみがえる地球なのです。‥‥さあ、今こそ地球を救い出しましょう。ヴァーチャルなブラックホールに吸い込まれつつある地球を引っこ抜くのです。全てを脱ぎ捨てるのです。解放するのです。だから、その綱を握って!
妻  え? これはへその緒ではなかったのですか?
精神科医  そうです! へその緒です! 地球をもう一度リアルの世界に取り戻し、再生し、生まれ出させるへその緒です! さあ、握りましょう! さあ、引っ張りましょう!
妻  あ、はい!

  妻、ロープを握る。

精神科医  そのへその緒の手触りをしっかりと感じていますか?
妻  はい、しっかり感じています。
精神科医  その手を放さないで! その痛みを忘れないで!
妻  はい!
夫  生ましめんかな!
弁護士  生ましめんかな!
精神科医・産科医・弁護士・夫  成り成りて成り余れるところを、成り成りて成り合わぬところにさしふたぎて、星を生みなさむと思ふ!
ミオウ  ある日、おじいさんがカブのタネをまきました。
精神科医・産科医・弁護士・夫  ♪父ちゃんのためならエンヤコラ
母ちゃんのためならエンヤコラ
ハルカ  おじいさんは一生懸命にカブを育てました。
精神科医・産科医・弁護士・夫  ♪もひとつおまけにエンヤコラ

  音楽。(「ヴォルガの舟歌」)

ミオウ  おじいさんは大きく育ったカブを抜こうとしました。
精神科医・産科医・弁護士・夫  うんとこしょ どっこいしょ
うんとこしょ どっこいしょ
ハルカ  けれどもカブは抜けません。
精神科医・産科医・弁護士・夫  うんとこしょ どっこいしょ
うんとこしょ どっこいしょ
ミオウ  まあ、何て大きなカブなんでしょう!
精神科医・産科医・弁護士・夫  うんとこしょ どっこいしょ
うんとこしょ どっこいしょ
ハルカ  それでもカブは抜けません。
精神科医・産科医・弁護士・夫  オーエス オーエス オーエス オーエス‥‥‥
ミオウ  カブをおじいさんが引っ張って、そのおじいさんをおばあさんが引っ張って、そのおばあさんを孫が引っ張って、その孫を犬が引っ張って、その犬をネコが引っ張って、そのネコをネズミが引っ張って、
ハルカ  そのネズミをアリが引っ張って、そのアリをミジンコが引っ張って、そのミジンコをがプランクトンが引っ張って、そのプランクトンをがバクテリアが引っ張って、そのバクテリアをミトコンドリアが引っ張って、そのミトコンドリアをDNAが引っ張って‥‥
ミオウ・ハルカ  小さく小さく小さくなって、小さくなって‥‥あれ? 消えちゃった?
精神科医・産科医・弁護士・夫  大きく大きく大きくなって、大きくなって、宇宙が裂けた!
妻  イヤー!!!
ミオウ・ハルカ  うわあー!(転ぶ)

  間。

精神科医  その裂け目の向こうに何が見える?
ミオウ  え? 何?
ハルカ  何なの?

  ミオウ、ハルカ、宇宙の裂け目をのぞき込む。

精神科医  ほら、よーく、目を開いて、見つめてごらん。
ミオウ  何?
ハルカ  見えないよ。
ミオウ  うん、よく見えない。
ハルカ  ‥‥あれ?
ミオウ  え? 何?
ハルカ  あれかな?
ミオウ  え? どれ?
ハルカ  ほら、あれ。
ミオウ  ええ? ‥‥ああ。
ハルカ  でしょ?
ミオウ  そっか。
ハルカ  へぇ。
ミオウ  ふーん。
ハルカ  ふーん。
妻  ねぇ。
ミオウ・ハルカ  え?
妻  私にも見せて。
ミオウ  ママ‥‥。
ハルカ  お姉ちゃん‥‥。
妻  お願い。
ミオウ  ‥‥はい。どうぞ。
ハルカ  どうぞ。

  妻、宇宙の裂け目をのぞく。

妻  え? ‥‥何も見えないよ?
ミオウ・ハルカ  ‥‥‥。
妻  ほんと、見えないよ。‥‥見えない。見えない。見えない。‥‥あ。
ミオウ・ハルカ  ‥‥‥。
妻  え? ええ!
ミオウ・ハルカ  ‥‥‥。
妻  あれは‥‥私? 私なの? 私? ‥‥本物の私?
ミオウ  本物の私?
ハルカ  本物の私?
妻・ミオウ・ハルカ  本物の私?
弁護士  ザッツ・フェイクニュース!
妻・ミオウ・ハルカ  え?
精神科医・産科医・弁護士・夫  ザッツ・フェイクニュース!
アハハハハハ‥‥。

  音楽(「ヴォルガの舟歌」)。
  立ち尽くす妻、ミオウ、ハルカ。
  笑い声。
  溶暗。

  ゆっくり明かりがつく。
  ハルカが一人で立っている。

ハルカ  チョウチョは、さなぎの時が一番体が弱くて危険なので、表面に固いカラを作って守るのだそうです。どれくらい弱くて危険かと言うと、体全体がドロドロにとけてしまって、一から体を作り直すのだそうです。ドロドロってすごいですね。そんなのもう虫じゃないですよね。でも、そんな状態でも生きてるんですよね。不思議ですね。ほんと、生命の神秘です。そんな状態だから、さなぎのカラを破ったらすぐ死んじゃうんですが、さなぎからしたら「見てしまったのですね」と悲しく告げる夕鶴のつうみたいな気分なのでしょうか?

  ハルカ、ゆっくりとサンバイザーをはずし、マスクをはずし、手袋をはずす。
  音楽(マーラー 交響曲第五番「アダージェット」)。

ハルカ  そのドロドロなのが、やがてカラを破ってチョウチョになったりするんで、もう、びっくりです。さなぎから羽化して羽を広げて大空を飛ぶってイメージは素敵なんだけど、実際には羽を広げるのに失敗して、羽がしわくちゃになって飛べずに死んじゃうのもいるみたい。青虫の時に踏まれて死んじゃうのもいるし。どんな死に方が一番悲しいのかな?
私は、たぶん、チョウチョになれなかったんだろうけれど、やっぱりドロドロでは死にたくはないな。だって、そう思いません? 青虫で死んだら、一応、死んだ青虫だし、チョウチョで死んだら、死んだチョウチョなんだけど、死んだドロドロって何ですか? 死んだドロドロ? もう、わけがわかんない。願わくは、そういう死に方だけはしたくないですね。でも、この世は一寸先は闇だから。‥‥注意一秒、ケガ一生。情けは人の為ならず。お仙泣かすな。馬肥やせ。
‥‥それでは、ごきげんよう。

  ハルカ、ゆっくりおじぎをして去る。
  音楽、大きくなる。
  暗転。

                              おわり


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