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消えます。(戯曲)

【これは、劇団「かんから館」が、2018年11月に上演した演劇の台本です】

死と再生と輪廻転生とニーチェと虹とカピバラがモチーフ。生きることは死につつあること。動くことは止まりつつあること。死につつある自分を受け入れ、止まりつつある自分を受け入れなさい。死を恐れるな。死を見つめるのだ。死を考えるな。死を感じるのだ。この世の始まりは、終わりの始まり。ビッグバンのその瞬間に、終末の時限爆弾は破滅への時を刻み始めた。

  〈登場人物〉
   老女・母
   女・娘
   死んだ女
   男・祖父
   太い男・父
   若い男・父の弟


    男が立っている。 歌う。(アカペラ)

男   ♪一人で行くんだ 幸せに背を向けて
    さらば恋人よ なつかしい歌よ友よ
    今 青春の河を越え
    青年は 青年は 荒野をめざす

     女がやって来る。

男    やあ。
女    やあ。
男    ひさしぶり。
女    ほんと、ひさしぶりね。
男    どのくらいになるかな?
女    すっかり完全に忘れちゃって、初対面だと言った方がむしろ手っ取り早いぐらい、ぶり。
男    百年ぶり?
女    まさか。
男    五十年ぶり?
女    相変わらず、冗談が面白くないわね。
男    じゃあ、三十六年ぶりってことにしておこう。
女    勝手に言ってなさい。
男    あの頃、僕たちは恋人だった。
女    勝手に言ってなさい。
男    二人は街中のみんながうらやむお似合いのカップルだった。君は高校三年生。僕は大学生。しかし、あの暗い戦争が二人の仲を引き裂いたんだ。
女    勝手に‥‥。それってちょっと勝手すぎない? それじゃ歴史改竄よ。まさか、あなたはあの歴史修正主義者の仲間なの?
男    歴史なんて、犬にでも食わせろ。地軸がわずか一%傾いただけで、全ての史実は吹っ飛ぶんだ。僕の前に歴史はない。僕の後ろに歴史はできるんだ。
女    また、そうやってヒトのセリフをパクる。あなたは昔からそうだった。あなたには真実というものがないのよ。
男    真実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。
女    あなたは鴻上尚史なの?
男    いや、ニーチェだ。
女    え?

     男、女の肩を引き寄せる。 音楽。(「いつでも夢を」)

男    ♪星よりひそかに 雨よりやさしく
     あの娘はいつも歌ってる
     声が聞こえる 淋しい胸に
     涙に濡れた この胸に
女    言っているいる お持ちなさいな
     いつでも夢を いつでも夢を
     二人 はかない涙を うれしい涙に
     あの娘は変える歌声で

     見つめ合う二人。
     暗転。
     明かりがつくと二人は相変わらず見つめ合っている。 男が若い男に変わっている。

若い男  過去が現在に影響を与えるように、未来も現在に影響を与える。
女    え?
若い男  たとえば、僕たちは、終わらない螺旋階段を登っているようなものなのさ。出会いが別れであり、別れが出会いであるような。そして、僕たちは、永遠に求め合い、そして、永遠に出会うことはない。まるで、エッシャーのだまし絵の中で、果てしのない追いかけっこを続けているようにね。
女    何を言ってるの? 私たちは、こうして出会っているじゃない?
若い男  だから、言っただろう? 事実は存在しない。解釈だけが存在すると。
女    それは‥‥ええっと‥‥。
若い男  ニーチェだ。
女    相変わらずね。あなたは、そんなもったいぶった言い方しかできないから、もてないのよ。カッコばっかり付けてるから、女に相手にされないのよ。
若い男  それを言うな。
女    ふふん。図星でしょう? 痛いところを突かれたわね。
若い男  ‥‥‥。
女    こうして私が会いに来てあげてるだけでも感謝してよね。
若い男  昔の女のくせに。
女    え? 何か言った?
若い男  いや、別に。
女    あれからあなたは何をしていたの? さえない女に出会って、さえない恋でもして、さえない失恋をして、さえない鬱病にでもかかっていたわけ?
若い男  それは‥‥もういい。
女    よくないわよ。人間っていうのはね、誰でも失敗はするものなの。でも、それを反省して、同じ失敗を繰り返さない。それが人間と猿の違うところなの。小学校の先生に習ったでしょ?
若い男  ‥‥忘れたな。
女    忘れた? あなた、山崎先生のありがたい教えを忘れちゃったって言うの? いったいどの口がそんなことを言わせるわけ?
若い男  忘却とは、忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ。‥‥また、こうも言う。忘却はよりよき前進を生む、と。
女    はあ? 何よ、それ?
若い男  ニーチェだ。
女    あなた、そればっかりね。ニーチェだか、フルーチェだか知らないけど、そんなの結局お題目みたいなもんじゃない。ヒトのセリフをパクってばっかりで、それで自分が偉くなったって思ってたら大間違いよ。
若い男  ‥‥わかってないな。‥‥キミは昔からそうだったよ。
女    そうだったって、何がよ?
若い男  キミは昔からバカだった。
女    え? ‥‥何て言ったの?
若い男  キミはバカだ。
女    ‥‥もしかして、ケンカ売ってるの?
若い男  まあ、バカという言葉にはいろんな意味があるわけで、そこのところのニュアンスを細々説明してたらキリがないから、割愛させてもらうわけで、乱暴な言い方で申し訳ないのだが、要するにキミはバカなんだ。
女    ふーん。‥‥そう来たか。‥‥あのさあ、バカっていうヤツが一番バカだって知ってる?
若い男  知らない。
女    ああ、そうなの? だったらさ、その下水口みたいな口でさ、ありがたいお題目を朝から晩まで飽きるまで唱えてたら、どう? いいアイデアだと思わない?
若い男  ‥‥別に‥‥思わないな。
女    ほらほら、唱えなさいよ。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。
若い男  ‥‥‥。
女    南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。ほら、頭の中が空っぽになって、その腐った脳みそも合わせ味噌ぐらいにはなるんじゃない?
若い男  ‥‥‥。
女    南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。
若い男  友よ、人を懲らしめたいという強い衝動を持つ者を信用するな。
女    何よ? それも、また‥‥
若い男  ニーチェだ。
女    ほーんと、バカの一つ覚えって、よく言ったものね。
若い男  人は賞讃し、あるいは、けなす事ができるが、永久に理解しない。
♪男と女の間には、深くて暗い川がある 誰も渡れぬ川なれど エンヤコラ 今夜も舟を出す Row and Row Row and Row振り返るな Row Row
女    変な歌。
若い男  まあ、ひとまずお別れだ。また、再び会うことになるだろうが。それは明日か、十年後か、五十年後か‥‥。それは神のみぞ知る。
じゃあな。老兵は死なず。ただ消え去るのみ、だ。
女    また‥‥
若い男  いや、ダグラス・マッカーサーだ。
女    ‥‥‥。

     若い男、去ろうとする。そこへ、老女が現れる。

老女   何が老兵は死なずだい? 青二才のくせして。
若い男  あ。‥‥あなたは?
老女   これでも昔は谷町小町って呼ばれたこともあったさ。そして、またある時は、月のウサギって呼ぶ男もいたねぇ。
若い男  ‥‥‥。
老女   ずいぶんひさしぶりだねぇ。もう忘れちまったかい?
若い男  ‥‥忘れちゃ‥‥いないさ。忘れるわけがない。
老女   そうかい? そりゃ、ありがいことだよ。‥‥何年ぶりかねぇ? 百年ぶり? 五十年ぶり? ‥‥とりあえず、三十六年ぶりってことにしておこうかね?
若い男  それは、ボクのセリフだ。
老女   おやおや、そいつは著作権申請でもしたのかい? それとも商標登録かい?
若い男  そ、それは‥‥。
老女   記憶なんてものほど、あてにならないものはないよ。お前さんとあたしが昔出会ってたなんてのも、本当かどうか怪しいものさ。ひょっとしたら、三十六年ぶりじゃなくって、三十六年後の間違いだってことがあるかもしれない。
若い男  まさか‥‥それじゃ、あなたは未来から来たとでも言うのか?
老女   そうだと言ったらどうする?
若い男  そんなことが‥‥。ハハハ。馬鹿げた冗談だ。
老女   おやおや、案外つまらない常識人なんだねぇ。そんなカビの生えたような常識を後生大事に守り続けて何の得があるって言うんだい?
記憶がいつでも通り過ぎた足跡の中に残ってるって、いったい誰が決めたんだい? そんな脳天気な構えじゃ、前から襲われた時は隙だらけじゃないか? 前門の虎、後門の狼って言葉を知らないのかい? ‥‥哀れな常識の奴隷。悲しい習慣の傀儡。
そんなちっぽけなつまらない世界に閉じこもっていては、本当のことなんか何も見えやしないよ。
若い男  本当のこと?
老女   かわいそうに。若く見えても、頭の中は、石頭のコンコンチキじゃないか。そんな頭じゃ、そこの女があたしだって言っても信じられないだろうねぇ。
若い男  え?
女    ‥‥そこの女って‥‥もしかして私のこと?
老女   私の他に誰か女でもいるのかい?
女    ‥‥私があなた‥‥って、どういうこと?
老女   そのままさ。あんたがあたしで、あたしがあんた。
女    え? え? ‥‥ねぇ‥‥この人何言ってるの?
若い男  ‥‥さあ?
女    あのぅ‥‥もしもーし。‥‥大丈夫ですかあ?
老女   そんな大きな声を出さなくても聞こえてるよ。老人は耳が遠いなんて、つまらない思い込みは捨てることだ。それに、申し訳ないけど、大丈夫だよ。どうもお生憎様。
女    あの、おばあさん、でも、たとえ耳が大丈夫だとしてもですね、ほら、あの‥‥ちょっと言いにくいんだけど‥‥。
老女   頭かい?
女    ああ‥‥まあ‥‥そんな感じっていうか‥‥。
老女   さあ、それはわからないねぇ。ぼけてる人間は、自分がぼけてるかなんて考えないだろうし、ぼけてない人間は、もちろん考えやしないだろう? 違うかい?
女    ああ‥‥まあ‥‥そうですね。
老女   だから、狂ってる人間は、自分が狂ってるかなんて金輪際考えやしない。そして、逆もしかりさ。違うかい?
女    ああ‥‥はあ‥‥。
老女   だから、あたしが狂ってるかどうかなんてことには意味がないのさ。だいたい狂ってない人間なんているのかい?
ああ、確かにあたしは狂ってるさ。そしてあんたも狂ってる。この男も狂ってる。みんな狂ってる。ただ、それぞれにその狂いの向きは違うだろうけどね。
女    狂いの向き?
老女   例えば、あんたは三十六年前から歩いて来たとしよう。そしてあたしは三十六年後から歩いてくる。同じ道だ。なにせあんたはあたしで、あたしはあんただからね。
女    ‥‥‥。
老女   でも、あんたとあたしは交わることはない。なぜだかわかるかい?
女    ‥‥さあ?
老女   それは、平行線だからさ。パラレルのレールなのさ。例えばあんたが右のレールで、あたしは左のレールで、そのままどこまでもどこまでも行っちまう。東京だって、札幌だって、ウラジオストクだって行っちまう。
例えば、あんたは過去から未来へ。あたしは未来から過去へ。そして永遠に交わりはしないが、たまに偶然にすれ違う。ちょうど今日みたいにね。その時、気付くのさ。やっぱり、あんたはあたしで、あたしはあんただってことにね。まあ、それに気付いたからって、どうってこたないんだがね。
若い男  ‥‥じゃ‥‥じゃあ、今は?
老女   今?
若い男  そう、今だ。‥‥あなたが三十六年の未来から来たとして、彼女が三十六年の過去から来たとして、だとしたら、今はどこにあるんだい?
老女   ‥‥そんなことを知ってどうするね?
若い男  どうもしない。‥‥どうもしないが、知りたい。今がどのようにしてどこにあり、どこに行くのか? それぐらい知る権利がボクにもあるんじゃないか?
老女   権利と来たか。‥‥どうして若いヤツは、そう形式的に考えたがるんだろうね?
若い男  教えてくれ。‥‥教えて下さい。お願いします。(土下座)
老女   ‥‥今か。‥‥そうさね。
若い男・女    ‥‥‥。
老女   それは‥‥まあ‥‥消失点かな?
若い男  しょうしつてん?
老女   そう、消失点だ。
若い男  ‥‥それは‥‥それは何なんだ?
女    遠近法よ。
若い男  え?
女    遠近法において、平行の二本の線は、近景においてに遠ざかり、遠景において近づく。 その最も遠く接近した位置において、交わる瞬間に二本の線は消滅する。これを消失点と言う。
若い男  遠近法‥‥。
女    私、これでも一応美大生だったんだから、こんなのは常識よ。
若い男  ‥‥ということは?
女    二つの線は永遠に平行であり、永遠に交わることはなく、その交わりの瞬間に消滅する。
若い男  それは‥‥それは、つまり、パラレルワールドということなのか?
老女   おや、いいところに気がついたねぇ。
女    パラレルワールド‥‥? どういうこと?
若い男  コインに裏表があるように、世界にも表の世界と裏の世界があって、そのふたつの世界はまるで合わせ鏡のようになっていて、その中で同時的に時は動き、人々は生きている。ただし、それぞれの世界は、互いの世界の存在を知ることはない。
女    それが、パラレルワールド?
若い男  たしか、そんな話だったような‥‥。
女    話? 話って、それは作り話なの?
若い男  さあ、それはわからない。これは伝説だからね。遠い昔から語られてきた伝説だ。
女    伝説‥‥。
若い男  そう、伝説だ。‥‥ただし、異次元という概念を援用すれば、あながち荒唐無稽な作り話とは言えないかもしれない。
女    異次元って‥‥ドラえもんの四次元ポケットみたいなやつ?
若い男  まあ‥‥そうかな?
女    ‥‥だったら‥‥じゃあ、私が表の世界の私で、そのおばあさんが裏の世界の私だっていうこと?
老女   おやおや、どうしてあんたが表の世界なんだい? あんたの方が裏の世界かもしれないじゃないか。‥‥まあ、どっちがどっちでも、そんなこたどうでもいいんだけどね。
女    ‥‥でも、だったら、おかしいんじゃない? 私とこの人とは現に出会ってるじゃない? 表と裏の二つの世界が出会うなんてあり得ないんでしょ?
若い男  ‥‥そ、それは。
老女   午前0時に合わせ鏡をのぞいてはいけないという話を知ってるかい?
女    え?
若い男  え?
老女   そこにあの世が見えるとも言うし、未来が見えるとも言うし、過去が見えるとも言うね。ずっと昔からそんな言い伝えがある。
女    ‥‥それ、どこかで聞いたことがあるわ。
老女   まあ、信じるも、信じないもあんたの勝手だがね。‥‥まあ、ただの言い伝えだからね。
女    どうしてあなたはそんなにもったいぶるのよ?
ねぇ、教えてよ。それは本当なの? いったい何が見えるの? もし、私とあなたが合わせ鏡だと言うのなら、私たちが出会ったら、いったい何が起こるの?
老女   フフフフフ。あんた、思ったより頭がよろしくないようだね。‥‥何が起こるって? そんなのわかりきってるじゃないか。‥‥何も起こりはしないよ。
女    だから、思わせぶりはもういいから! 早く答えてよ!
老女   だから、答えたじゃないか。何も起こりはしないのさ。ただ。
女    ただ?
老女   その先は、さっきあんたが言ってたじゃないか。
女    え? 私が?
老女   そう、あんただ。
女    え? 何? 私、何か言った? 何よ、それ?
老女   まあ、ゆっくりと、自分の胸に聞くことだな。‥‥じゃあ、そろそろ行くとするか。
女    え? 待って! そんなのナシよ! 待って!

     老女、去ろうとする。

若い男  二つの線は永遠に平行であり、永遠に交わることはなく、その交わりの瞬間に消滅する。

     老女、歩みを止める。

女    え? ‥‥消失点?

     老女が振り返る。

若い男  二つの線は永遠に平行であり、永遠に交わることはなく、
若い男・女  その交わりの瞬間に消滅する。
老女   サヨナラダケガ人生ダ。
女    え? ‥‥サヨナラダケガ人生?
若い男  サヨナラダケガ人生‥‥。
老女   ‥‥サヨナラダケガ人生ダ。

     間。

老女   わかったかな? ‥‥じゃ、さよなら。
若い男  ‥‥さよなら。
女    ‥‥さよなら。

     三人、それぞれ別の方向に去る。

    男がギターを手にして出て来る。 太い男、死んだ女もそれぞれ出て来て、座る。

男   ♪死んだ男の残したものは
    ひとりの妻とひとりの子ども
    他には何も残さなかった
    墓石ひとつ残さなかった

    死んだ女の残したものは しおれた花とひとりの子ども
    他には何も残さなかった 着もの一枚残さなかった

    男、適当にギターを弾いてたりする。

太い男  あーあ。
死んだ女 ‥‥‥。
太い男  あーあ。
死んだ女 ‥‥‥。
太い男  ヒマだねぇ。
死んだ女 ‥‥‥。
太い男  ヒマだあ‥‥。ねぇ?
死んだ女 ‥‥‥。
太い男  ねぇ!
死んだ女 ‥‥え? ‥‥もしかして、それ、私に言ってるの?
太い男  ああ‥‥うん。‥‥一応。
死んだ女 ああ‥‥そうなんだ。
太い男  うん。
死んだ女 ‥‥で、何?
太い男  いや‥‥だからさ‥‥ヒマだなあって。
死んだ女 ああ‥‥そうなんだ。
太い男  いや‥‥だからさ‥‥ヒマじゃない?
死んだ女 ああ‥‥そうなんだ。
太い男  いや、だからさ、そうなんだじゃなくってさ。
死んだ女 え? 何?
太い男  もう! ‥‥もう、いいよ。
死んだ女 ‥‥‥。
太い男  もう、いいから。
死んだ女 ‥‥ふーん。
太い男  ‥‥‥。ほんと、ヒマだけど‥‥それに、ちょっと冷えてきたな。
死んだ女 ‥‥‥。
太い男  うー。ほんと結構寒いな。
死んだ女 ‥‥‥。
太い男  ねぇ、ちょっと寒いって思わない?
死んだ女 え? 何?
太い男  いや、だから、寒くない?
死んだ女 ああ‥‥そうなんだ。
太い男  もう!
男    「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ。
太い男  え? 何?
男    いや。‥‥別に。
太い男  ‥‥‥。何だよ? 何だよ。何だよ。‥‥もう、どいつもこいつも。‥‥‥つまんねぇやつらだな。
死んだ女 ‥‥‥。

     しばしの間。

男    ‥‥なあ。
太い男  え? 何?
男    お前じゃない。そっちの女。
太い男  ああ。
死んだ女 ‥‥‥。
男    面白くないんだよ。お前が死んでもさ。意外性もなんにもないからさ。
死んだ女 ‥‥‥。
男    こいつ死ぬんだろうなって前々から思ってたよ。ずーっと前から。いっつも死にそうな感じだったし。いっつも死にそうなこと言ってたし。コミュニケーション能力も全然ないし、どうせ友達もいなかったんだろ?
死んだ女 ‥‥‥。
男    なんとかしゃべってくれるヤツが現れても、「こいつうざい」とか、すぐにディスったりするんだろ? お前何様なんだよ? 性格悪いんだよ。最悪だよ。
死んだ女 ‥‥うっさいな。‥‥黙れよ。じじい。
男    で、死んじゃったりしたらさ、「ああ、ユミちゃんかわいそう。さみしかったんだあ。」とか言ってもらえるとか思ってたわけ? 甘いんだよね。
死んだ女 ユミじゃねぇよ。
男    もう、ほんと人生に何のとりえもないもんだからさ、死ぬのだけが晴れ舞台でさ、最後の花道でさ、パーっと派手に散りましょう。同じ花なら散るのは覚悟って感じで、電車に飛び込んだりしてさ、「本日、日暮里駅で発生しました人身事故により、ただ今電車の運行を休止しております。」「もう、朝っぱらから死んでんじゃねぇよ。このクソ忙しい時間によう。」ってディスられるだけじゃん? イマドキ、自殺なんて新聞にも載りやしないよ。
死んだ女 飛び込みじゃねぇよ。
男    ほーんと、哀れだよねぇ。もう、死ぬのだけが生き甲斐みたいでさ。「私の生き甲斐は死ぬことでーす」って、ほんとつまんねぇギャグ。お前、生き様だけじゃなくて、死に様も完全に滑っちゃってるよ。ダダ滑り。
死んだ女 ‥‥‥。言いたいのは、それだけ?
男    御希望なら、朝までしゃべってもいいけど?
死んだ女 いっぺん死んだら?
男    はあ?
死んだ女 くたばれよ。じじい。
男    何、それ?
死んだ女 だから、そのまんま。
男    ふーん。‥‥まあ、言われなくてもくたばるけどさあ。そのうちね。
死んだ女 さっさとくたばれよ。‥‥でも、まあ、ほっといても後、四、五年の命か? 末期癌。ステージ4。
男    いや、案外しぶとく生きたりして。憎まれっ子世にはばかるって言うから。
死んだ女 それ、自分で言うか?
男    言うね。オレ、自己客観視ができるから。
死んだ女 バッカじゃねぇの?
太い男  おいおい。もうケンカはよし子さん。
死んだ女・男    ‥‥‥。
太い男  二人とも、仲よくやろうよ。こんな狭いところで、ケンカなんかしてたら、息苦しくなっちゃうじゃない?
死んだ女・男    ‥‥‥。
太い男  ねぇ。お願いだから。オレに免じて、ケンカはやめて。
死んだ女 ‥‥してねえし。
太い男  え?
死んだ女 してねぇし、ケンカ。
太い男  え? だって、今‥‥。
死んだ女 もう、飽きた。
太い男  え? え?
男    そうだな。‥‥つまんねぇしな。
太い男  えー。‥‥そうなの?

     男、またギターを弾き始める。

太い男  ふーん。‥‥そうなんだ。
死んだ女 ‥‥あのさ。
太い男  え?
死んだ女 オレに免じてって何なの?
太い男  え?
死んだ女 言ったじゃん。
太い男  え? ‥‥ああ、まあ。
死んだ女 何であんたに免じなきゃなんないの?
太い男  え? それは、その‥‥。
死んだ女 そもそも、あんた何なの? 誰?
太い男  ああ、そうですね。自己紹介が遅れましたが‥‥。
死んだ女 何で、ブクブク太ってんの?
太い男  え? いや、それは‥‥。
死んだ女 あんた、ひょっとして水死体なの?
太い男  え?
死んだ女 ほら、何とか言うじゃん? 白くてブクブクしてて‥‥。
男    土左衛門。
死んだ女 ああ、それそれ。
男    成瀬川土左衛門。
死んだ女 え? 誰、それ?
男    江戸時代の相撲取り。
死んだ女 そんなの知るかよ。‥‥で、その土左衛門なの? あんた?
太い男  ああ‥‥もしかしたら‥‥そうかもしれない。
死んだ女 そうかもしれないって、そうじゃないかもしれないってこと?
太い男  ああ‥‥はい。
死んだ女 死んでるの? 死んでないの?
太い男  さあ? ‥‥どうでしょう?
死んだ女 ええ? 自分のことなのにわかんないわけ?
太い男  すみません。
死んだ女 もてないでしょ? あんた。
太い男  はい。もてません。
死んだ女 そんなはっきりしないヤツはもてるわけないよ。
太い男  ああ、そうかもしれませんね。
死んだ女 ほんと、この頃の男はそんなのばっかだから。やんなっちゃう。
太い男  すみません。
死んだ女 何でそんなに卑屈なの?
太い男  ええ?
死んだ女 たとえ土左衛門だとしてだよ? そりゃ、土左衛門は、見た目あんまり美しくはないけどさ、それでも土左衛門なりのプライドってあってもいいと思う。「土左衛門で悪いか!」みたいな。そういうプライドを持てよ。
太い男  ああ‥‥そう言われたら、そうですよね。
死んだ女 じゃあ、言ってみろ。
太い男  え? 何を?
死んだ女 「土左衛門で悪いか」
太い男  ああ‥‥。それ言うんですか? ここで?
死んだ女 四の五の言わない。
太い男  ああ‥‥はい。「土左衛門で悪いか」
死んだ女 声が小さい!
太い男  はい。‥‥土左衛門で悪いか!
死んだ女 声が小さい!
太い男  土左衛門で悪いか!
死んだ女 土左衛門で生きるんだ! はい!
太い男  え? 土左衛門で生きるんだ!
死んだ女 土左衛門だって生きているんだ!
太い男  土左衛門だって生きているんだ!
死んだ女 ‥‥ミミズだって‥‥オケラだって‥‥土左衛門だって‥‥みんなみんな生きているんだ‥‥友達なんだ。
太い男  ‥‥え?
死んだ女 生きてねぇし。
太い男  え?
死んだ女 土左衛門は生きてねぇし。
太い男  え?
死んだ女 アハハハハハハハ‥‥。(狂ったように笑う)
太い男  ‥‥‥。
男    アハハハ‥‥。

    太い男、男をにらむ。
    男は無視して、ギターを弾く。
    しばしの間。

太い男  ‥‥あの。
死んだ女 ‥‥‥。
太い男  あの‥‥姐さん。
死んだ女 え? ‥‥それ、アタシのこと?
太い男  あ、はい。‥‥そう呼んでいいですか?
死んだ女 ‥‥‥。好きにすれば。
太い男  ありがとうございます。
死んだ女 ‥‥‥。
太い男  あの‥‥姐さん。
死んだ女 ‥‥何?
太い男  姐さんは、死んでるんですよね?
死んだ女 そう‥‥なんじゃない? たぶん。
太い男  自殺なんですか?
死んだ女 そうなんじゃない?
太い男  何で、自殺したんすか?
死んだ女 あんた、ほんとデリカシーってものがないわね。
太い男  ああ、すんません。
死んだ女 そういうの、ふつー、ストレートに聞くもんじゃないわよ。
太い男  すみません。
死んだ女 あのさ、平均台ってあるでしょ?
太い男  え?
死んだ女 あの、体操競技とかで使う平均台。
太い男  ああ‥‥ありますね。平均台。
死んだ女 まあ、ガードレールでもいいんだけどさ。
太い男  え?
死んだ女 まあ、その、平均台だか、ガードレールだか、その上を歩くわけよ。
太い男  え?
死んだ女 その下はさ、一〇〇メートルぐらいの断崖絶壁でさ。落ちたら絶対助からない。
太い男  ああ‥‥はあ。
死んだ女 その上をさ、ずっとずっと歩き続けるわけよ。まあ、チキンレースみたいなもんよね。
太い男  はあ。
死んだ女 でもさ、どこまで行っても、アタシは落ちないの。落ちるわけない。だって、アタシ、バレエやってたから、バランス感覚は抜群にいいのよね。
太い男  ああ。

     音楽。(「美しき青きドナウ」)
     死んだ女、平均台を歩くように歩き出す。
     頭に本とか載せてたりする。

死んだ女 それで、何日も何日も、ひょっとしたら、何年も歩き続けるわけ。でも、アタシは一向に落ちる気配さえない。だってアタシは‥‥。
太い男  バレエをやってた。
死んだ女 そう。
太い男  ああ‥‥。それで?
死んだ女 うん。‥‥飽きちゃった。
太い男  え?
死んだ女 普通飽きるって思わない? ‥‥ほら、絶対落ちないチキンレースってさ、もうチキンレースじゃないじゃない?
太い男  え? ああ‥‥。そうかな?
死んだ女 そうなのよ。それで、そんな終わらない、まるでルーチンワークみたいなチキンレースなんか、やってる意味あんのかな?って。
太い男  ‥‥‥。
死んだ女 で、こんなつまんないクソゲー、もう降りちゃおうって。
太い男  ‥‥‥。
死んだ女 それで、降りちゃった‥‥ってワケ。
太い男  え? 降りちゃうって‥‥どういうことっすか?
死んだ女 だから、降りちゃうの。やーめたって。
太い男  やーめた、って。
死んだ女 やーめた。
太い男  ‥‥‥。それって‥‥ひょっとして‥‥その平均台とかガードレールから落ちちゃうってことですか?
死んだ女 ‥‥かな?
太い男  でも、だって、下は一〇〇メートルの断崖絶壁なんでしょ?
死んだ女 ああ、そうだよ。
太い男  だったら、死んじゃうじゃないっすか!
死んだ女 だから、死んでるじゃない?
太い男  ああ‥‥。そっか。
死んだ女 うん。
太い男  ‥‥じゃあ、姐さんは、飛び降り自殺なんですね。
死んだ女 え?
太い男  でしょ? ‥‥だって、一〇〇メートルの断崖絶壁から。
死んだ女 アハハハ。あんたバカでしょ?
太い男  え? だって‥‥。
死んだ女 そんなの、例えよ、比喩よ、メタファーよ。
太い男  え? え? じゃあ、ウソなんですか?
死んだ女 ウソも何も‥‥。だったらさ、平均台の上を何日も何年も歩ける人間とかがいちゃったりするわけ? 平均台の下が一〇〇メートルの断崖絶壁って、そんなムチャクチャな場所がいったいどこにあんの?
太い男  あ。
死んだ女 アハハハハハハ‥‥。
太い男  ‥‥‥。
死んだ女 あんた、ほんとに面白いね。アハハハハ‥‥。
男    アハハハ‥‥。

     太い男、男をにらむ。
     男は無視して、ギターを弾く。

死んだ女 ‥‥あのさ。
太い男  ‥‥え?
死んだ女 あのさ、死ぬのって結構めんどくさいわけよ。
太い男  え?
死んだ女 生きるのもめんどくさいけどさ。
太い男  ああ‥‥はあ。
死んだ女 ほんとにそう思ってる?
太い男  え?
死んだ女 いいよね。あんたみたいに何にも考えてないと。
太い男  ‥‥‥。
死んだ女 ほら、生きる、っていうか、生まれるのには何にも理由も意味もないじゃん。てか、気付いたらもう生まれてて、生きてるわけだから。
太い男  ああ‥‥そうですね。
死んだ女 でもさ、メシ食ったり、クソしたり、耳くそほじくったり、学校行ってテスト受けたり、働いたり、働かなかったり、セックスしたり、しなかったり、まあ、いろいろやんなきゃなんないわけじゃん? まあ、何にもしなかったら、さすがに長すぎて、退屈すぎて、死んじゃいたくなるだろうけどさ。
太い男  ああ‥‥そうですね。
死んだ女 で、生きるのに意味なんかあるのかなあ? めんどくせーなあ、とか考えちゃうわけよ、人間は。その辺が人間のダメなところよね。犬とか、猫とか、カピバラは、絶対そんなこと考えないじゃん? あいつら、バカだから。何にも考えてないから。
太い男  ああ。
死んだ女 ひたすら食って、ひたすら寝て、ひたすら交尾して、死ぬ。ただそれだけ。
太い男  ああ。
死んだ女 ほんと、何にも考えてないって、いいよねぇ。
太い男  そうですね。
死んだ女 それ‥‥一応、あんたのことなんだけど。
太い男  えー。‥‥さすがに、犬とか猫よりは考えてますよ。
死んだ女 じゃあ、カピバラぐらい?
太い男  カピバラ? カピバラって、犬や猫より考えるんですか?
死んだ女 そんなの知るか。カピバラに聞けよ。
太い男  そんな‥‥。‥‥カピバラねぇ。
男    カピバラは悲しからずや 空の青 海の青にも染まず漂う。
死んだ女 え? カピバラって悲しいの?
男    さあ?
死んだ女 何よ、それ!

     男、ギターを弾き出す。

死んだ女 死んだらさ‥‥。
太い男  ‥‥‥。
死んだ女 死んだらさ、どこに行くんだろうね?
太い男  ‥‥‥。え? ‥‥もしかして、オレに言ってます?
死んだ女 死んだら、どこに行くんだと思う?
太い男  ええ? ‥‥それ、あなたが言います? ‥‥姐さん、死んでるんでしょ?
死んだ女 まあ‥‥一応‥‥たぶん。
太い男  だったら‥‥。
死んだ女 あの世とかあったらいいよねぇ。あの世があれば、死んでも実質死なないじゃん。ちょっとお引っ越し気分でいいんだから。
太い男  はあ‥‥。
死んだ女 永久不滅だよねぇ。
太い男  ‥‥‥。
死んだ女 ねぇねぇ、土左衛門。あんた、あの世とか信じるタイプ?
太い男  え? ‥‥さあ、そんなの考えたことないから。
死んだ女 そっかあ。それも考えないか。そうだよねぇ。なまじ、あの世なんか考えるよりか、何にも考えないのが一番かしこいかもね。いや、バカなんだけどね。やっぱ、バカって最強だだわ。
太い男  ‥‥あのぅ。‥‥それって、ほめてるんですか? けなしてるんですか?
死んだ女 バカにしてんのよ。バカだけに。
太い男  え?
死んだ女 アハハハハ。
男    ハハハハ。
太い男  ‥‥‥。
男    バカと言うやつがバカだ。と言うやつがバカだ。と言うやつがバカだ。と言うやつがバカだ。と言うやつがバカだ。
死んだ女 何言ってんの?
男    いや、土左衛門が言いたいかと思って。
死んだ女 なるほど。
太い男  言いませんよ。そんなの。
男    ホント?
太い男  舌噛みそうだし。
男    なるほど。それはそうだ。

     男、「♪なまむぎなまごめなまたまご」みたいな変な歌を歌い出す。

死んだ女 消えちゃいたいなあ。
太い男  え?
死んだ女 消えちゃえるといいよねぇ。
太い男  ‥‥‥。
死んだ女 ほら、もしあの世とかなかったらさ、死んだら終わりなわけでしょ?
太い男  ああ‥‥そうですね。
死んだ女 一巻の終わり。万事休す。ジエンド。ゲームオーバー。
太い男  ‥‥うん。
死んだ女 まあ、そういうのもアリっちゃアリなんだろうけどね、それはわかるんだけど、やっぱ、ちょっときついよねぇ。
太い男  ‥‥‥。
死んだ女 「私、完全終了」ってのはねぇ‥‥。
太い男  それは、そうですよねぇ。
死んだ女 やっぱ、消滅はねぇ。
太い男  ですよねぇ。
死んだ女 イヤだよねぇ。
太い男  ‥‥‥。
死んだ女 ‥‥あーあ、消えちゃいたいなあ。
太い男  え? ‥‥え?
死んだ女 ん?
太い男  ‥‥ちょっと待って。
死んだ女 え? 何?
太い男  あのぅ、一応確認したいんですが‥‥。
死んだ女 だから、何?
太い男  あの‥‥消滅は、きついんですよね?
死んだ女 え? ‥‥ああ、うん。
太い男  でも‥‥消えちゃいたいん‥‥です、よ、ね?
死んだ女 うん。そうだよ。
太い男  何が違うんですか?
死んだ女 え?
太い男  だから、消滅するのと消えちゃうのと、いったい何が違うのか?と。
死んだ女 え? 違うじゃん。‥‥え? そんなのわかんないの?
太い男  ああ‥‥はい。
死んだ女 そっかー。何にも考えてないと、そんなのもわかんなくなるんだ。
太い男  いや‥‥そういう問題じゃないと思うけど。(男に)ねぇ?
男    ‥‥え? 何? オレ?
太い男  ええ。
男    えっと、何だっけ?
太い男  だから、消滅するのと消えるのと。
男    え? 何、それ?
太い男  え! 聞いてなかったんですか? 今、ここで話してたんですよ?
男    悪い。メンゴ、メンゴ。
太い男  え? そこにいるのに?
男    わりぃ、わりぃ。オレ、ちょっと入っちゃうタイプでさ。憑依型っていうやつ?
太い男  えー。もう‥‥もう、いいです。
男    ほんと、りぃわ、りぃわ。

     男、またギターを弾き出す。
     ♪生まれた時が悪いのか それとも俺が悪いのか

太い男  ‥‥ほんと。もう‥‥。どいつもこいつも。
死んだ女 シューとね。シュシュシューとね。
太い男  え?
死んだ女 こう、シュシュッって消えちゃうのよね。‥‥それが一番だと思わない?
太い男  はあ? ‥‥もういいですよ。あなたの言ってること、さっぱりわかんないから。
死んだ女 え? わかんない?
太い男  わかんないです。ちーっとも。オレ、バカだから。
死んだ女 だからさあ、何にしてもさあ、途中でやめちゃうのってきついじゃない? しんどいじゃない?
太い男  ‥‥‥。
死んだ女 でさ、生きるのって、途中でやめるしかないわけじゃん。別に自殺じゃなくてもさ。ゴールとかないわけだし。
太い男  ‥‥はあ。
死んだ女 だったら、初めからなかったことにしたいのよねぇ。ふと、気付いたらいなかったっていうか、もういたことすら気付かないっていうか。存在の痕跡も記憶も歴史も全部丸ごと消えちゃったらいいと思わない?
太い男  え? もしかして、それって、生まれなかったことにするってことですか?
死んだ女 まあ、そういう感じかな?
太い男  それは無理ですよ。もう生まれちゃってるんだから。
死んだ女 そこんところ、何とかして。オマケしてよ。って、神様に頼んでみるとか。
太い男  ‥‥神様ねぇ。‥‥都合のいい時だけ神様信じるんですね。
死んだ女 みんな、そんなもんでしょ? 別に神様でなくてもいいんだけど。ドラえもんのタイムマシンで過去に戻ってさ、ホワイトボードのアタシの名前を消しちゃうとか?
太い男  それは歴史改竄だ。
死んだ女 固いこと言わないの。とにかくアタシは消えちゃいたいのだ!
太い男  もう死んでるんだからいいんじゃありません?
死んだ女 死ぬのはイヤなの! 消えちゃうのがいいの! ねえ、神様、お願い!
太い男  いやいやいやいや。オレ、神様じゃないから。
男    もう、うるさいやつだなあ。
死んだ女 え?
男    お前、うっさいんだよ。めんどくせぇんだよ。
死んだ女 え? ‥‥もしかして、じいさん、あんた‥‥。
男    いかにも。私が神である。‥‥みたいな展開を期待した?
死んだ女 ちっ。じゃねーのかよ。‥‥ダメだわ。このじじい、もうボケが相当進んでるわ。
男    ご希望なら、そういう話にしてもいいんだけど‥‥。
死んだ女 ご希望じゃねーよ。
男    そうか。それは、残念だったな。‥‥それじゃ、そろそろ行くとするか。

     男、立ち上がる。

男    さあ、行くぞ。ユダ。

     突然、聖歌が流れる。

死んだ女 え?
男    さっさとしろよ! アホ、ボケ、カス!
太い男  あ、はい。すんません。

     太い男も立ち上がる。

死んだ女 ちょ、ちょっと。今、ユダとか言わなかった?
男    ♪たとえば男は あほう鳥 たとえば女は 忘れ貝 真っ赤な潮(うしお)が 満ちるとき なくしたものを 思い出す
男・太い男  Row and Row Row and Row 振り返るな Row Row

     男・太い男、去る。 しばしの間。

死んだ女 ‥‥変な歌!

     暗転。

     カピバラ的日常。
     カピバラの家族がいる。
     父=太い男 母=老女 娘=女 父の弟=若い男 祖父=男 の設定。
     父、母、娘、父の弟が、四つん這いでうろついている。

娘    ‥‥ねぇ。
他の三匹 ‥‥‥。
娘    ねぇってば。
母    うるさいわね。何よ?
娘    私たち、何で四つ足で歩いているの?
母    え?
父    お、それはなかなか哲学的な質問だな。
娘    ねぇ。
母    うるさいわね。そんなのもわかんないの? バカだね、この子は。
父    母さん、そういうのはダメだよ。子供の素朴な疑問を摘み取ってしまってはいけない。
母    うるさいわね。もう、親子そろってバカなんだから。
父    だから、そういう言い方は‥‥。
母    うるさい! バカだからバカって言ってんの! 文句ある?
父    ‥‥‥。
娘    ねぇ、ねぇ、この姿勢、けっこうしんどいんだけど。
母    うるさいって言ってんだろ!
父の弟  兄さん、それにしてもちょっと遅くないですか?
父    え、何が?
父の弟  お父さん。
父    ああ、そうかな?
母    車にでも轢かれたんじゃない?
父    おい、お前。
母    車に轢かれてぺっちゃんこ。脳みそグチャグチャ。内臓がデロデロリーン。
父    おい! そんな縁起でもないこと‥‥。
娘    ねぇ! もう、しんどいよ!
母    うっさい! バカ娘!
娘    えええーん。
父の弟  ああ、ルナちゃん。大丈夫? おじさんが慰めてあげるからね。ほら、イナイイナイ、バー。イナイナイ、バー。
娘    ‥‥おじちゃん。あんた、なめてんの?
父の弟  ほーら。デロデロリーン。
父    おい!
父の弟  ‥‥すんません。
父    おい! ちょっと、お前たち! やっていい冗談と悪い冗談があるだろ!
母・父の弟  ‥‥‥。
父    お前たち、カピ子のことを忘れたのか?
母・父の弟  カピ子‥‥。
父    ルナも聞け。お姉ちゃんのことを思えば、四つん這いで歩くぐらい何だ?
娘    お姉ちゃん‥‥。
父    カピ子は‥‥カピ子はなあ‥‥あの日、ガードレールの上を歩いていて、ふとした拍子に足を踏み外して、そのまま一〇〇メートルの断崖絶壁の奈落の底へ‥‥ああ!(頭を抱える)
母    脳みそグチャグチャ。内臓がデロデロリーン。
娘    いやああああああ!(と、逃げる)
母    デロデロリーン。(追いかける)
娘    きゃあああああ。
母    デロデロリーン。
娘    きゃあああああ。
母    デロデロリーン。
父    いい加減にしろ!
母・娘  ‥‥‥。(止まる)
父    き、き、貴様ら、それでも人間か!
母    はあ?
父    え?
母    人間じゃないわよ。カピバラよ。

     間。

父    ああ、そうだった! オーマイガー!(頭を抱える)
娘    なーんだ。そうだったんだ! あたしたちカピバラだったんだ。そっかあ。アハハハハハ‥‥。(と走り回る)
父の弟  カピ子君の英霊に、合掌!

     全員、正座して合掌。
     SE。チーン。

父    お、ルナ、ちゃんと正座できてるじゃないか。
娘    えへへへ。
母    そういうお父さんこそ。
父    (自分を見て)おや、ホントだ。
父の弟  ひょっとして、立てちゃったりして?
父    いや、まさか、そこまでは‥‥。
娘    えい!(と、立ち上がる)やった!
母    あ、ルナ! 一人だけずるいわよ!(と立つ)
父    お、お前たち、何、勝手に立ってるんだ! 進化ってのには、手順とか段取りっていうものがあってだなあ‥‥。
父の弟  進化!(と立つ)
父    あ‥‥。

     父だけ四つん這い。

父    ううっ。
母    お父さん、どうします?
娘    立てないの? だっさーい。
父    お前たちには、カピバラとしての矜恃ってものがないのか?
母    はあ?
娘    何それ?
父    だから、とりあえず立てばいいという話じゃないんだ。何でもかんでも進化という言葉で片付けるな。我々カピバラ族が営々として築き上げてきた歴史と伝統とアイデンティティーというものがだな‥‥

     祖父がやって来る。(二本足で)

祖父   ただいまー。
母    あ、お義父さん。
父    あー! な、なんで立ってるんですか!
祖父   ああ? ‥‥ああ、いや、ちょっと、こっちの手が春から腱鞘炎になっててさ。
父    ‥‥‥。
祖父   いろいろやってみたんだけど、これがなかなか治らない。
父    ‥‥‥。
祖父   だからさ、そういう姿勢は、ちょっときついんだよね。
父    ‥‥そんな。
娘    あれ? おじいちゃん、車に轢かれたんじゃなかったの?
父    ルナ!
祖父   車に轢かれた?
娘    うん。それで、ぺっちゃんこになったんじゃないの?
父    ルナ!
祖父   うん。‥‥まあ、轢かれたことは轢かれたんだけど。
父    ええ?
祖父   車じゃなくて、路面電車だ。
娘    ろめんでんしゃ?
祖父   ああ。
娘    でも、ぺっちゃんこじゃないじゃん。デロデロリーンしてないじゃん。
祖父   幸い、路面電車の前の網の所にすくい上げられたんだ。それで助かった。
母    まあ、それは大変でしたね。お義父さん。
父の弟  路面電車の網って‥‥。いったいいつの時代の話なんだ?あなたは、志賀直哉なのか?
祖父   まあ、助かったことには助かったんだけどな、それでも、やっぱり体中あちこち痛んじゃっててね。
母    それじゃ、サロンパス貼ります? 何ならフェイタスもありますけど?
祖父   ありがとう。でもな、あちこち痛すぎて、いちいち湿布を貼ってたらミイラ男になってしまいそうな気がする。それで提案なんだが‥‥。
母    はい?
祖父   みんなで城崎に行くってのはどうかな?
母    城崎?
祖父   湯治ってやつだ。
父の弟  やっぱり志賀直哉なんだ!
母    まあ、それはグッドアイデアですわ。
娘    ねぇ、とうじって何よ?
母    え? 湯治も知らないの? もう、この子と来たら‥‥。
娘    ねぇ、何なのよ?
祖父   温泉旅行だ。
娘    え? 温泉旅行! やったー!
父    お父さん、そんなこと勝手に決められたら困りますよ。だいたいカピバラが家族旅行なんて聞いたことがない。
祖父   何を言ってるんだ、カピ太郎。カピバラに温泉はつきものじゃないか? カピバラと言えば温泉。温泉と言えばカピバラと言っても過言ではない。
母    ほんと。そうですわよねぇ。もうこの人と来たら何言ってんだか‥‥。
父    ‥‥人じゃないから。
祖父   じゃあ、決まりだな。‥‥それじゃ、出かけようか? 善は急げだ。
父    ええ? そんな、いくら何でも‥‥。
祖父   男がゴタゴタ言うんじゃない!
母    ええ、そうですわ。ほんと、この人と来たら‥‥。
父    だから、人じゃないって!
娘    おじいちゃん、かっこいい! それじゃ、出発進行!
父以外   おー!

    SE、汽笛。 音楽。(「A列車で行こう」)
    父、四つん這いで歩き始める。
    そこに娘が乗っかる。
    他の者、踊ったり、跳ねたりしながら続いて退場。サザエさんのエンディング風。
    全員、タオルを持って戻ってくる。
    舞台上、横一列に並んで座る。
    頭にタオルを載せる。温泉につかっているイメージ。

全員   あーっ。

     温泉のSE(タライの音とか)。

父の弟  いやあ、生き返りますなあ。
母    ほんと。極楽極楽。
娘    極楽極楽。あーっ。
母    あーっ。
父の弟  あーっ。
全員   あーっ。

     温泉のSE(タライの音とか)。

父    ここって、混浴なのか?
娘    そんなの関係ないよ。
父    え? 何で?
娘    だって、カピバラって、オスとかメスとかよくわかんないじゃん。
父    ああ。そう言えば、そうだな。
父の弟  なるほど。それは言えてる。
母    ほんとほんと。わかんないわ。
全員   アハハハハハ。

     温泉のSE(タライの音とか)。

祖父   ♪旅行けば~駿河の国に茶の香り~
父    お父さん。駿河じゃないから。
祖父   うるさいな。お前は旅の情緒ってものがわからんのか?
父    ‥‥すみません。
父の弟  たまには、こうやってのんびり家族水入らずみたいなのもいいもんですねぇ。
母    ほんとにねぇ。
娘    家族水入らずって、何? 
母    もう、この子はそんなのも知らないんだから。
父の弟  家族水入らずってのはね、家族の他に余計な他人とか邪魔者がいないってこと。
母    わかった?
娘    え? いるじゃん。
母    え?
娘    いるじゃん、余計な他人。
父    え? ルナ‥‥。
娘    おじちゃんは家族じゃないじゃん。
父    あ。(言っちゃった)
父の弟  え。
母    ルナ! ‥‥ハハハ。もう、この子は何言ってるんでしょうねぇ? おじさんだって家族じゃない?
娘    違うよ。
母    え。
娘    おじちゃんは家族じゃない。
父の弟  ううっ。
父    ルナ!
娘    前々から不思議だったのよねぇ。どうしてうちはおじちゃんが住んでるの? 友達の家にはおじちゃんとかいないよ。ふつー、おじちゃんっていうのは、お盆とかお正月にやって来る人なんじゃないの?
母    何言ってるのよ? たまにしか来ないおじちゃんより、毎日会えるからいいじゃない?
娘    よくないよ。お小遣いもくれないし、お年玉だってもらったことないもん。
父    ルナ!
娘    そもそも、おじちゃんって、何の仕事してるの?
父の弟  仕事って‥‥そんな‥‥オレたちカピバラなんだから。
娘    いいトシこいて仕事もしないで親の世話になってるようなのはパラサイトって言うんだって。
父の弟  うっ。
母    そんなの誰が言ってたの?
娘    学校の先生。
母    もう、最近の学校は、ろくな事教えてないのね。
娘    ママ、パラサイトってどういう意味か知ってる?
母    え? ‥‥何言ってんの? ‥‥そんなの当たり前じゃない。‥‥親をバカにするもんじゃないわよ。
娘    寄生虫。
母    えっ?
娘    パラサイトって寄生虫なんだって。‥‥ねぇ、寄生虫って何?
母    えっ。それは‥‥。
祖父   サナダムシ。回虫。ギョウチュウ。ノミ。シラミ。ダニ。
母    お義父さん!
娘    そっかあ。おじちゃんって、ノミとかシラミの仲間だったんだあ。そっか。何か納得! アハハハハ。
父    ルナ!
父の弟  ルナちゃん!
娘    え? 何?
父の弟  ルナちゃんは、ボクのこと、そんな風に思ってたの?
娘    思ってたんじゃなくて、今思ったんだけど。
父の弟  そんな‥‥。そんなの、残酷だよ!
娘    えっ?
家族たち えっ?
父の弟  ボクが君のことをどんなに思っていたか、君は知らないんだ。‥‥君の「おはよう」で朝が始まり、君の「おやすみ」で一日が終わる。君がいない世界なんて何の意味もないし、君がいなければ、暗い夜は永遠に明けることはない。君はボクの全てであり、君は完璧なんだ。‥‥だのに、だのに、どうして‥‥。
こんなの‥‥こんなの、残酷すぎるよ。‥‥もう、ボクは、青い空を信じない。輝く太陽を信じない。正義を信じない。愛を信じない。‥‥青春の馬鹿野郎!

     父の弟、風呂から飛び出し、走り去る。

全員    あ。
祖父   おい、体ふかないと風邪ひくぞ!

     しばしの沈黙。

祖父   ‥‥まあ、体をブルッとやればいいか。カピバラだからな。
父    ‥‥父さん。
娘    ‥‥ママ。
母    ルナは何も悪くないわ。あなたは何も悪くないから。
祖父   うーん。‥‥あいつも悩んでいたんだな。かわいそうなことをしたな。
全員    ‥‥‥。
祖父   うーん。カピ次郎がロリコンだったとはな‥‥。
母    お義父さん、そういう問題じゃありませんから。
祖父   うーん。それで結婚できなかったのか‥‥。
母    いや、だから、そういう問題じゃありませんから。
祖父   叔父と姪とは結婚できないのか?
母    いや、だからお義父さん。いい加減にして下さい!
祖父   ‥‥ごめんなさい。
父    ‥‥母さん。
母    そうよね。カピ次郎さんとのお付き合いの仕方考えないと‥‥。
父    ああ。‥‥あいつがそんな目でルナを見てたとはな‥‥。
母    ほんと、もう、何を信じればいいのか‥‥。
父    ほんとにすまない。母さん、ルナ。
母    あなたが謝ることないじゃない?
娘    そうよ。パパ。
父    しかし、あいつはオレの弟だ。
娘    そんなの関係ないじゃん。
母    そうよ。もう大人なんだから。‥‥もし、責任を感じなければならないとすれば‥‥。(祖父を見る)
父・娘    すれば?(祖父を見る)
母    まあ、昔から「親の顔がみたい」って言いますしねぇ。
父・娘    「親の顔がみたい」ねぇ。
祖父   え? え? 何? オレ?
父・母・娘    ‥‥‥。(ジーっと祖父を見る)
祖父   ああ。そうだな。だったら、こういうのはどうだ?
父・母・娘    こういうの?
祖父   だから、この際、結婚を前提にしてだな。
父・母・娘    はあ?
祖父   まあ、いいなづけってやつだ。どうだ?
父・母・娘  はあ?
祖父   どうだ? ルナ。ちょっと恥ずかしいか?
母    そういう問題じゃありません!
祖父   え? そうなの?
母    はい!
祖父   えー。そうかな?
父    あの、お父さん。
祖父   はい。
父    カピ次郎は、ルナの叔父ですよ。
祖父   はい。そうですね。
父    お父さん。近親相姦って言葉知ってます?
祖父   はい。知ってますよ。
父    あの、意味分かってます?
祖父   はい。近しい親族同士が姦通することです。
父    え‥‥そこまで分かってて、なぜ?
娘    ねぇ、カンツーって何?
母    あなたはそんなこと知らなくていいから!
娘    ええー。何なの?
祖父   ルナ。おじいちゃんが後で教えてあげるから。
父・母   教えなくていいです!
祖父   え? そう?
父・母   はい!
母    ‥‥あなた。
父    母さんの言いたいことはよーくわかるよ。この親にしてあの息子だ。本当に申し訳ない。ルナ、すまない。この通りだ。(土下座)
娘    何でパパが謝るの?
母    いや、ルナちゃん、これはきちんとしてもらわないと。
娘    そのカンツーってやつ?
母    だから、その言葉は言っちゃダメ!
娘    ええー? どうしてー?
祖父   ルナ。おじいちゃんが後で教えてあげるから。
母    クソじじい! いい加減にしろ!
祖父   あ。
母    あ。

     沈黙。

娘    あれ?
母    え?
娘    パパ、何か、動かないよ?
母    あ。
祖父   あ。

     母と祖父、父を起こす。
     父、硬直している。

母    あなた! あなた!
祖父   カピ太郎! カピ太郎!
父    ‥‥プハー。
娘    あ、まだ死んでないみたい。
祖父   まあ、風呂の中で土下座なんかしたら、死ぬわな。ふつー。
母    もう! いったい誰のせいだと思ってるんですか?
祖父   え? 誰のせいなの?
母    もう! このクソ‥‥(殴ろうとする)
父    ああ! マジで死ぬかと思った。
娘    あ、パパ!
父    ルナ!
娘    だから、カンツーって何なの?
父    ‥‥‥。もう一度土下座を‥‥。
母・祖父   しなくていいから!
祖父   その姦通というか、近親相姦のことだが‥‥。
母    お義父さん! 何で懲りないんですか?
祖父   いや、真面目な話。‥‥考えてみたら、オレたちカピバラじゃないか? 畜生に近親相姦もへったくれもないんじゃないか?
父・母    あ。
娘    おじいちゃん、ナイス! それは言えてる!
父    ルナ、何を言ってるんだ? 姦通も知らないくせに。
娘    カンツーは分かんないけど、近親相姦は知ってるよ。
父・母    ぎゃふん。
祖父   それじゃ話は早い。早速、カピ次郎と結婚を前提に‥‥
娘    それはなしよ。
祖父   え? どうして?
娘    だからー、近親相姦ってのはアリかなーと思うんだけど、カピ次郎おじちゃんとはナシよねー。
祖父   ぎゃふん。
娘    アハハハハハ。

     父の弟が戻ってくる。

父    あ、カピ次郎。
父の弟  やあやあ、みなさん、盛り上がってますね。
父    こいつ。立ち直りが早いな。
父の弟  いやあ、湯冷めしちゃってさ。結構外冷えてんだよね。‥‥どっこいしょ。

     父の弟、元の場所に座ろうとする。

母    あの、カピ次郎さん。
父の弟  え? 何ですか?
母    そこ、やめてもらえません?
父の弟  え?
母    あなた、ちょっと離れて入って下さい。
父の弟  え? 何で?
母    もう。白々しいんだから。
父    自分の胸に聞けよ!
父の弟  え? 自分の胸?
父    とにかく、お前は、あっち!(と指さす)
父の弟  え? そうなの?
父・母    うん!(指さす)
父の弟  ちぇ‥‥。何だよ、何だよ。(と、一人離れて座る)

     しばしの間。

父の弟  ‥‥それで、皆さん、何の話で盛り上がってたんですか?
母    もう、ほんと、白々しいんだから。
父の弟  やっぱ、蜂の話とかですか?
父    え? 蜂の話? 何だよ、それ?
父の弟  ねぇ、お父さん。
祖父   え?
父の弟  城崎って言ったら、やっぱり蜂ですよね。
祖父   え?
母    何? 城崎って、ハチミツとかが有名なの?
父の弟  いや、ハチミツじゃなくって‥‥。(ルナに)ねぇ、ハニー。
父    黙れ。カス!
母    どさくさに何言ってんの!
娘    ねぇねぇ、その蜂の話って何?
父の弟  さすがルナちゃん。よく聞いてくれた。‥‥あのね、旅館の屋根に蜂がいたんですよ。たくさん。‥‥お父さん、そうでしたよね?
祖父   旅館の屋根に蜂? ‥‥ああ、ああ、そうだった。
父の弟  もう! しっかりして下さいよ。
母    ちょっとボケが始まってるからねぇ。
祖父   ボケとはなんだ! ボケとは! オレはまだボケとらん!
母    はいはい。
父の弟  その蜂の話。して下さいよ。
祖父   ああ。‥‥旅館の二階の窓の外に蜂がたくさん飛び回ってたんだ。たぶん、どこかに蜂の巣があったんだろうな。それがブンブンうるさくて、気になってしょうがない。それに窓も開けられない。何とかしたいと思ってたら、部屋にゴキジェットがあったんだ。まあ、ゴキブリ用だけど、効くかもしれんと思ってな、こう、窓を少し開けてその隙間から、シュシュー、シュシューって攻撃した。そうして、しばらくして、窓を見たら、蜂はいなくなってたんだ。さすがはゴキジェットだ。

     間。

父    え? それだけ?
娘    何それ? ゴキジェットのカスタマーレビュー?
祖父   まあ、そうかな?
父の弟  いやいや、違うでしょ! お父さん!
祖父   え?
父の弟  続きがあるでしょ? 続きが。
祖父   続き?
父の弟  それで、お父さん、窓を開けてみたんでしょ? そしたら‥‥。
祖父   そしたら?
父の弟  もう! しっかりして下さいよ!
母    思ったよりボケが進んでるみたいねぇ。
父    そうだな。
祖父   何を言う! オレはボケとらん!
母    はいはい。
父の弟  もう! ‥‥それで、屋根の上に一匹蜂が落ちてたんですよね? はい、それで?
父    おい、カピ次郎、もうお前が話した方が早いんじゃないか?
父の弟  いや、これはあくまでお父さんのストーリーですから。‥‥それで、その落ちてる蜂を見て、お父さんどう思ったんですか?
祖父   落ちてる蜂を見て? え? 何を思うんだ?
父の弟  もう! ほら、お父さん思ったじゃないですか? ‥‥じゃ、じゃあ、ヒント行きますよ。最初が「さ」。
祖父   最初が「さ」?
父の弟  思い出しません?
祖父   さ? さ? さ?
父の弟  じゃあ、もう一つ! 最後が「た」。
祖父   え? 最初が「さ」で、最後が「た」?
父の弟  そうです! 思い出しました?
祖父   最初が「さ」で、最後が「た」ねぇ‥‥。
父の弟  そうです。そうですよ。
祖父   最初が「さ」で、最後が「た」。最初が「さ」で‥‥あ、わかった!
父の弟  はい、どうぞ!
祖父   さるまた。

     間。

父の弟  ブー。
祖父   じゃあ、さすまた。サンタ。サラダを食べた。
父の弟  もう! クイズじゃないんですから!
祖父   ささげに酢をかけさしすせそ その魚浅瀬で刺しました。
父の弟  もういいです!
父    だから、お前が言えよ。
父の弟  もう! ‥‥淋しかった。
父    早く言えよ。
父の弟  だから言いましたよ!「淋しかった」。
父    え? それが答えなの? 淋しかった?
父の弟  答えとか、そういうんじゃないですけど。
母    何それ? さんざん期待させといて、それなの?
娘    つまんなーい。
父の弟  だから、つまるとかつまんないとかじゃなくて‥‥。
祖父   淋しかった。他の蜂が皆巣へ入ってしまった日暮れ、冷たい瓦の上に一つ残った死骸を見る事は淋しかった。しかし、それはいかにも静かだった。
父の弟  え‥‥。
祖父   せわしくせわしく働いてばかりいた蜂が全く動くことがなくなったのだから静かである。自分はその静かさに親しみを感じた。
娘    ‥‥おじいちゃん。
祖父   ルナ。今、こうしてお前と話しているおじいちゃんも、やがて動かなくなる時が来る。
娘    ‥‥‥。
祖父   それは五年後かもしれないし、十年後かもしれないし、三十六年後かもしれないし、いや、ひょっとしたら明日、車に轢かれてしまうかもしれない。
娘    ‥‥‥。
祖父   ルナ。お前はお姉ちゃんが死んだのは知っているだろう?
娘    うん。‥‥あんまりはっきりとは覚えてないけど。
祖父   お姉ちゃんの亡骸は見たのかい?
娘    いいえ。見てない。
父    お父さん、娘にそんな残酷なことはできませんよ。
祖父   そうか。‥‥そうだな。‥‥でもな、ルナ、私が死んだ時は、動かなくなった私を見なさい。
娘    え?
祖父   たとえどんな死に方であったとしても、車に轢かれてグチャグチャだったとしても、腐り果てて腐臭を放っていたとしても、お前は、それをしっかり見届けなければならない。
娘    え? ‥‥どうして?
祖父   死を見つめるのだ。決して恐れるのではなく、怯えるのでもなく、厭うのでもなく、ありのままに死を見つめ、受け入れるのだ。
娘    ‥‥死を受け入れる?
祖父   そうだ。それが、真に生を受け入れることでもあるのだから。
娘    おじいちゃん。何言ってるのか、わかんないよ。
祖父   お前は、この世に生まれた瞬間から、死につつあるのだ。生きるとは、死につつあることだ。動くとは、止まりつつあることだ。死につつある自分を受け入れ、止まりつつある自分を受け入れるのだ。
娘    だから、何言ってんのかわかんないよ!
祖父   生まれた時から、死は我々に内包されている。お前の子宮の中で生まれ、育ちつつある死の芽生えを、お前は大きくして見守って行かなければならない。望む、望まざるにかかわらずだ。
娘    だから、わかんねーって!
祖父   死は必ずしも遠い未来からやって来るものではない。ひょっとしたら、お前の後ろからついて来ているかもしれない。知らないうちにすれ違っているかもしれない。
娘・死んだ女 うっせーんだよ! クソじじい!

     音楽。(「美しく青きドナウ」)
     死んだ女が踊りながら出て来る。
     辺りを踊り周り、やがて中央奥に胎児のようにうずくまる。

祖父   死を恐れるな。死を見つめるのだ。死を考えるな。死を感じるのだ。
娘(女) また、そうやってヒトのセリフをパクる。あなたは昔からそうだった。あなたには真実というものがないのよ。
祖父(男) 真実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。
父の弟  え‥‥。

     しばしの間。

父の弟  お父さん‥‥何言ってるんですか?
男    やあ。
女    やあ。
男    ひさしぶり。
女    ほんと、ひさしぶりね。
父の弟  ルナちゃんまで。‥‥どうしたの?
男    どのくらいになるかな?
女    また三十六年ぶりとか、つまんないことを言うんでしょ?
男    おや、なぜ知ってるんだい?
女    あなたの言いそうなことぐらいわかるわ。
男    フフ‥‥さすが、オレが昔選んだ女だけのことはあるな。
女    あなたになんか選ばれた覚えはないわ。
男    「記憶にございません」ってやつか。
女    まあ、そういうこと。
男    誰かが言ってたよ。記憶なんてものほど、あてにならないものはないって。
女    それって、また、例の?
男    いや、ニーチェじゃない。
女    じゃ、誰?
男    オレが選んだもう一人の女だ。
女    おやおや、気の多いこと。そういう男ってよくいるのよね。オレも若い頃はモテたんだって。
男    その女は、三十六年後の未来から来たって言ってた。
女    何だ、その人行っちゃってるんだ。かわいそうにね。
男    まあ、そうかもな。‥‥そうじゃないかもしれないが‥‥。
父    二人とも、お話の途中で申し訳ないんだが。
男・女    え?
父    そろそろ湯から上がらんとな。あんまり長湯すると、ゆでダコになっちまう。
母    それを言うなら、ゆでカピバラでしょ?
父    なるほど。母さん、うまいこと言うな。アハハハ。
母    アハハハ。
父の弟  兄さん‥‥。
父    え? 何だい?
父の弟  いや‥‥。
父    さあ、みんな、上がるぞ。カピ子を待たせちゃ悪いからな。
父の弟  え‥‥。
母    そうですね。
父の弟  え‥‥。カピ子って‥‥。
父    ほら。イチ、ニのサン!
父の弟以外  ザッバー。

     父以外立ち上がる。(風呂から上がるイメージ)

母    お父さん、いい加減、意地を張るのやめたら?
父    いや、カピバラにはカピバラの生き方ってもんがある。
母    もう! 頑固なんだから。もう、勝手にして下さい。
父    ああ、勝手にするよ。

     父と母、移動して死んだ女の隣に座る。(父は四つん這いで行く)

父    父さんもルナもこっちに来て下さいよ。カピ子が待ってますよ。
男・女    ‥‥‥。
父    父さん! ルナ!
母    ダメですよ。二人とも、もうあっちに行っちゃったみたいだから。
父    ああ‥‥そうみたいだな。
母    ええ。

     しばしの間。

父    ‥‥また、二人ぼっちだな。
母    いいじゃありませんか。こういうのも。
父    ああ‥‥そうだな。
母    そうですよ。
父    ‥‥‥。
母    ほんと久しぶりですね。あなたとこうやって二人きりで話すのも。
父    ああ、そうだな。
母    カピ子が生まれてからは、いつもずっとバタバタしてたから。
父    そうだな。
母    いつの間にか、知らないうちに月日だけが流れて‥‥。(と父をじっと見る)
父    ‥‥何だよ? ゴミでもついてるか?
母    いいえ。
父    ‥‥何だよ。何だよ。意味なく人の顔見るなよ。
母    人じゃないんでしょ?
父    ああ、そうだったな。
母    いやね、こうしてあなたの顔をしみじみ見るなんて何年ぶりかしらってね。
父    ‥‥‥。
母    お父さん、老けましたね。
父    え?
母    若い頃は、どっちかというとスリムだったのに、いつのまにかブクブク太って。
父    そんなこと言ったらお前だって‥‥。
母    お前だって何です?
父    え? ‥‥あ、いや。
母    それ以上変なこと言ったら、セクハラですよ。
父    夫婦にセクハラも何もありゃしないだろう?
母    いいえ、あります。
父    何だよ、何だよ。もう、窮屈な世の中になっちまったな。
母    まあ、それも月日の移り変わりですよ。
父    それに、あれだぞ。前々から思ってたんだが、どうして女だけがセクハラなんだ? そんなの不公平じゃないか?
母    そんなら、あなたも言ったらいいじゃありませんか?
父    い、いや‥‥言わないけど。
母    そうなんですか?
父    あ、ああ。
母    フフフ‥‥へーんなの。どうして男ってこう不器用なのかしらねぇ。
父    うるさい!
母    はいはい。
父    こら。バカにしてんのか?
母    はいはい。

     しばしの間。

父    そう言えば、一度聞こうと思ってたんだけど‥‥。
母    何です?
父    最初の子はカピ子だったじゃないか?
母    ええ。
父    それで、二人目の子が生まれて、女の子だったから、オレはバラ子にしようって思ってたんだ。それ、お前にも言ったよな?
母    そうでしたっけ?
父    そうだったよ。ていうか、ふつーに考えたらそうだろ? カピ子の次はバラ子だろ?
母    バラ子なんてかわいそうよ。学校でいじめられるわ。
父    そんなことないだろ?
母    いいえ、あります。
父    まあ、それはいいんだけど、どうしてルナなんだ? そっちの方がいじめられるんじゃないか? キラキラネームみたいだし。
母    それって、お義父さんの提案じゃなかった?
父    え? そうだっけ?
母    確か、そうよ。
父    いやあ、違うと思うけどなあ。あの父さんにそんなバタくさいセンスもアイデアもあるわけないよ。
母    そうかしらね?
父    お前、そう思わないか?
母    じゃあ、案外、カピ次郎さんとか?
父    ええ? 何でカピ次郎?
母    いや、何となく。
父    いくら何でもそれは‥‥。それはないだろ? なあ?
父の弟  ‥‥‥。
父    なあ、カピ次郎。
父の弟  え? え? ボクですか?
父    ああ。お前は、ルナの名前まで奪おうとしていたのか?
父の弟  え? え? な、何言ってるんです?
父    だから、お前は、ルナの心も体も名前も欲しかったのか?
父の弟  え? 何なんだ、これ? みんなの言ってることがわからないよ。‥‥みんなおかしくなっちゃったの? それとも、オレがおかしくなっちゃったの?
母    フフフフフ。
父    え?
母    フフフ。アハハハハ。
父    おい。おい、どうしたんだ?
母    ウソですよ。
父    え?
母    みんなウソよ。
父    え? え?
母    ルナはねぇ。私が付けたの。だって、私が産んだんだもの。そのくらいいいでしょ?
父    あ‥‥ああ‥‥まあ‥‥な。
母    どうしてルナなのか、教えてあげましょうか?
父    え? ‥‥ああ。
母    それはねぇ‥‥私が月の女だから。
父    え? ‥‥ええ?
母    私は月の女。かぐや姫なの。
父    か、母さん‥‥それは‥‥あんまり面白くない冗談だぞ。
母    あら、そうかしら?
父    あ‥‥ああ。
母    今度の満月の夜に、私は月に帰らなくてはなりません。
父    え‥‥。
母    長い間、どうもお世話になりました。(三つ指をつく)
父    いや‥‥その‥‥それ、本気で言ってるんじゃない、よ、な?
母    はい。
父    はいって‥‥? え?
母    ウソですよ。
父    え?
母    私は月から来たんじゃないの。
父    あ‥‥はい。
母    私は三十六年後から来ました。
父    は?
母    私は三十六年後から来た女。そして、月のウサギと呼ばれていたわ。
父    え‥‥。
母(老女)  ねぇ、そうだったよね。
男・女    え‥‥。
老女   ずいぶんひさしぶりだねぇ。もう忘れちまったかい?
男    ‥‥忘れちゃ‥‥いないさ。忘れるわけがない。
老女   あんた、また会っちまったね。ほんとに奇遇だねぇ。
女    あ、あなたは‥‥。
老女   教えてやっただろう? あたしはあんたで、あんたはあたし。
女    ‥‥三十六年後の私?
老女   そう。‥‥そして、あんたは、三十六年前のあたし。
女    いやーーーーーーーーーーーー!(うずくまる)
父の弟  なんだ? なんだ? なんだ? なんだ? もう、わけがわかめだぞ。のりだぞ。こんぶだぞ。すこんぶ。よろこんぶ。いや、そんなことを言っている場合じゃない。いったいどうなってんだ? オレの頭がおかしくなったか? 世界がおかしくなったか? ヤバイよ。ヤバイよ。ヤバすぎるよ。これはマジで狂ってるよ。もう、こんなのはいやだ。もう、こんな生活はいやだ。青春の馬鹿野郎!(うずくまる)

     音楽。(「月の沙漠 オカリナ演奏」)

老女   私は月の女。はるかな空の彼方から、あなたのことをじっと想っておりました。いとしくて恋しくて、でもそれは叶わぬ夢だから。それは禁じられた恋だから。だって私は月の女だから。‥‥それでも私は会いたかった。

老女   みんな、私のことを愚かだと言った。馬鹿だと言った。でも、愚かでもいい、馬鹿でもいい。だって、私は人魚姫。はかない夢に焦がれるの。刹那の恋に命を懸けるのよ。一瞬に燃えて、そして泡と消えるのよ。‥‥冬の花火は、透明に燃えて、そして悲しい。

男    まるで演歌のヒロインだな。昭和歌謡のお涙頂戴物語。三六年後の私ってのが聞いてあきれるぜ。
老女   フフ‥‥。何とでも言うがいいさ。
男    先の鞍には王子様、後の鞍にはお姫様。月の夢見るかぐや姫は、恋に恋い焦がれて、はるか地球まで、王子様を追いかけてやって参りました。早くあの人に会いたい。早く人間になりたーい。切なる願いはようやくに叶い、人間になれたのもつかの間、ああ哀れ人魚のかぐや姫は、泡となって悲しく消えて行く運命でありました。
聞くも涙、語るも涙の物語。どうぞハンカチを三枚、いや五枚ご用意下さい。お代は見てのお帰りだ。さあさ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい。
老女   だから、何とでも言うがいいさ。笑うがいいさ。

     間。

老女   ‥‥お前さんも、いつまでそうやっているつもりだい?
父    ほっといてくれ。オレにはオレの生き方ってものがある。
老女   まあいいさ。好きにするがいい。死ぬまでそうやっていればいい。
父    ああ、そうさせてもらうよ。
老女   男ってやつは、どうしてどいつもこいつも、こんなに馬鹿なのかねぇ。
父    ところで、こいつのことだが。
老女   え?
父    カピ子のことだ。
老女   カピ子? ‥‥ああ。
父    ひょっとして、お前、知ってたんじゃないか?
老女   え? 何を?
父    カピ子がどこへ行こうとしてたのか。
老女   え? 何を言ってるんだい?
父    ガードレールの一人旅。こいつがその長い遙かな旅路の果てにどこを目指していたのか? いったい何を求めてそんな旅に出かけてしまったのか? 焼けつく太陽の下、星降る寒い夜にカピ子が何を見たのか? それを教えてほしいんだ。
老女   ‥‥どうして、そう思うんだい?
父    頼む。オレは知りたいんだ。でなきゃ、オレは‥‥。
老女   でなきゃ‥‥どうなんだい?
父    オレは‥‥オレは、二度と再び立ち上がることはできないだろう。
老女   おや、どうしたのさ? お前さんは、カピバラとして生き続けるんじゃなかったのかい? それがあんたの生き方じゃなかったのかい?
父    もう、何もかもがわからなくなりつつあるんだ。オレが本当にオレなのかどうかさえ、わからなくなりつつあるんだ。
父・父の弟  もう、何もかもが、壊れつつあり、何もかもが失われつつあるんだ。
老女   そんなに知りたいかい?
父・父の弟  ああ。教えてくれ。何が本当なのか? 何が本当でないのか?
老女   そうさな。‥‥カピ子は、死んじゃいないさ。
父・父の弟  え? どういうことだ?
老女   カピ子は死んじゃいない。消えたのさ。
父・父の弟  消えた?
老女   その証拠に、誰もカピ子の亡骸を見た者はいないだろ? そこの女だけじゃなくってさ。
女    二つの線は永遠に平行であり、永遠に交わることはなく、その交わりの瞬間に消滅する。

     女、ゆっくりと立ち上がる。

父・父の弟  え?
男    消失点だ‥‥。
父・父の弟  消失点‥‥。
老女   そうさ。長いガードレールの旅路の果てに、あの子は消失点にたどり着いたのさ。

     音楽。(「オーバー・ザ・レインボウ」)

女    私は、子供の頃、虹を見るのが好きでした。とりわけ、虹の外側にうっすらと見えるもう一本の虹を見つけて以来、その二本の虹の立ち上がる場所が見たくて、知りたくてたまらなくなりました。
幸せをもたらすというダブルレインボウ。その交わりの根元を見つけたら、この世の幸せを独り占めできるような気がして。そんな欲張りな女の子だった私は、ある雨上がりの朝、虹を追いかけて旅に出たのです。虹の源を追いかけて、どこまでもどこまでも歩きました。でも、虹は、追いかければ追いかけるほど、どんどん遠ざかって行きます。やがて歩き疲れた私は、広い野原の真ん中で、一人泣いていました。もうとっくに虹は消えていたし、見たこともない風景が広がっていたし、さみしくて、恐くて、私は泣いていました。
途方に暮れて、青い空を見上げた時、そのぼんやりと涙にかすんだ目の端に、うっすらと虹が見えたような気がしました。まぶたの縁の本当にちっぽけな虹だったけど、虹を捕まえたような気がしたのです。
老女   消失点で道が消えちまうのは、こっち側の世界の話さ。あっち側の裏側の世界ってものを考えたことがあるかい?
父の弟  裏側の世界‥‥。
老女   そう、コインの裏表のように、表の世界と裏の世界がある。‥‥そう言ってたのはあんたじゃなかったかい?
父の弟  え? ボクが?
老女   その合わせ鏡の裏の世界じゃ、消えたはずの消失点から道が始まるのさ。‥‥だから、旅は終わることはない。その子の旅は永遠に終わらないよ。
父の弟  終わらない旅‥‥。
男    生きることは死につつあること。動くことは止まりつつあること。この世の始まりは、終わりの始まり。宇宙はその誕生の瞬間に、壊れ始める。
父の弟  ビッグバンだ!
男    そう。ビッグバンのその瞬間に、終末の時限爆弾は、破滅への時を刻み始めた! チッチッチッチッチッチッ‥‥。
女    チッチッチッチッチッチッ‥‥。
老女   チッチッチッチッチッチッ‥‥。
父    チッチッチッチッチッチッ‥‥。

     SE、秒針の音が重なる。

父の弟  危ない!

     男、身を伏せる。
     その瞬間! SE、爆発音!
     光が揺れ動き、やがて闇の世界へ。
     沈黙。静寂。 死んだ女に明かり。

死んだ女 ‥‥そして、終わりとは、始まりつつあること。死とは、生まれつつあること。消滅とは、湧き出でること。
父の弟  ‥‥え?
死んだ女 ‥‥物思へば沢の蛍も我が身より あくがれいづる魂かとぞ見る
女    ♪ほーほーほたる来い あっちの水はにがいぞ こっちの水はあまいぞ
父の弟以外  ♪ほーほーほたる来い あっちの水はにがいぞ こっちの水はあまいぞ
父の弟  ‥‥え? ‥‥これは輪廻転生の心象風景なのか?
男    その爆発の瞬間に、時空はひび割れた。二つに、三つに、四つに、五つに。
老女   もう、パラレルワールドどころじゃない。世界は四分五裂したのさ。
父の弟  え?
女    ドラえもんの四次元ポケットだ!
老女   一次元!
女    私はいつも目覚まし時計の五分前に起きる。そして、シャワーをあびてフルグラを食べる。
老女   二次元!
女    私はいつも学校の通学路で写真を撮る。今日はうす汚い野良猫がブロック塀によじ登ってた。シャッターチャンス!
老女   三次元!
父    父さんはいつものように朝から湯に打たれている。カピバラが好きなのは四十二度のお湯。この湯加減だけは譲れない。
老女   四次元!
父    家庭というのは帝国主義の植民地だ。母親は子供を生んで増殖し続け、家の中に固有の領土を果てしなく広げて行く。
老女   五次元、六次元、七次元、八次元、九次元。
女    十次元! どっかーん!
父・女・男・老女 どっかーん! ‥‥アハハハハハハ‥‥。

    SE、爆発音!
    全員、倒れる。
    光が揺れ動き、やがて闇の世界へ。

老女   午前0時に合わせ鏡をのぞいてはいけない。そこにあの世が見えるとも言うし、未来が見えるとも言うし、過去が見えるとも言う。
女    おばあさん、その話は、もう何度も聞きましたよ。
老女   おや、そうだったかねぇ。‥‥あんたとは何度も出会いすぎて忘れちまったよ。
女    私とあなたは出会ってはいけないんでしょ? 私が三十六年前からやって来て、
老女   あたしが三十六年後からやって来て。
女    私があなたで、
老女   あたしがあんた。‥‥そうそう、そうだった。いやいや、やっぱりトシはとりたくないもんだねぇ。
女    ほんと、ほんと。
女・老女   アハハハハ‥‥。
父の弟  これは確かにいつか見た風景だ。これがデジャブというものなのか?
男    表の世界の裏側に裏の世界があって、その裏側にまた表の世界があって‥‥。どこから始まってどこで終わるのか、旅はいつまで続くのか、それは神のみぞ知る、だ。
父の弟  あなたがその神じゃなかったのかい?
男    その裏側の世界は、例えばブラックホールだ。あるいは暗黒宇宙だ。闇は大きな口を開けて全てを飲み込む。光も時間も夢も希望もねたみも憎しみも殺意も愛も正義も戦争も平和も。それはパンドラの箱の合わせ鏡なのだ。
父の弟  パンドラの箱の合わせ鏡‥‥。

女    お姉ちゃん。お姉ちゃん。起きて。起きて。もう朝だよ。
老女   ルナ。やめなさい。お姉ちゃんは疲れているんだから。
女    だってママ、お姉ちゃんはずっと寝ているよ。昨日も、おとといも、その前の日も。
老女   お姉ちゃんは、長い長い旅をして来たのよ。だから、いつまでもゆっくりと休ませてあげましょう。
女    いつまでもって‥‥いつまで?
老女   そうだねぇ。‥‥ルナちゃんが大人になるまでかな?
女    もう、ルナは大人だよ。
老女   いいえ。まだまだ子供です。
父    そうだ。ルナはまだまだ子供だ。いつまでも子供でいてくれなくっちゃ。うん。永久に子供のままでいい。
老女   あなた、何言ってるんですか? あなたは余計なことは言わなくていいから。
父    え‥‥そうか?
老女   はい。
女    お姉ちゃん。お姉ちゃん。
老女   だから、やめなさいって。
女    だってぇ‥‥。
老女   お姉ちゃんはね、ねむり姫なの。魔女の魔法にかかって百年間眠り続けるの。
女    そんなのイヤだよ。退屈だよ。ルナは、お姉ちゃんと遊びたいの。お話がしたいの。
老女   そんな聞き分けのないことを言って。ルナはもう大人なんでしょ?
女    え?
父    いやいや、大人になってはいけないよ。
老女   もう! あなた、変なこと言わないで!
父    いや‥‥でも‥‥。
老女   あなたがそんなだから、カピ子は死んじゃうし、ルナはこんな子になっちゃったんでしょ!
父    いやいや、それはムチャクチャだろ!
老女   ムチャクチャじゃありません!
父    えー。
女    ええーん。ええーん。(泣き続ける)

死んだ女 ‥‥どうしたの?
女    あ。
死んだ女 どうして泣いているの?
女    お姉ちゃん‥‥。
死んだ女 ‥‥ルナ? あなたはルナなの?
女    うん。ルナだよ。
死んだ女 しばらく見ないうちに、すっかり大きくなって。
女    お姉ちゃんだって、しばらく見ないうちに‥‥。
死んだ女 しばらく見ないうちに‥‥何なの?
女    い、いや‥‥別に。
死んだ女 そっか。‥‥ほら、お姉ちゃんと一緒に虹を探しに行ったことがあったでしょう?
女    え? ‥‥お姉ちゃんと一緒だっけ?
死んだ女 そうよ。それで二人で迷子になっちゃって。
女    うん。
死んだ女 あの時、ルナ、お姉ちゃんがいなくなっちゃって、泣いてたでしょ?
女    え? ‥‥そうだっけ?
死んだ女 お姉ちゃん、見てたのよ。虹の上で。
女    え? 虹の上?
死んだ女 虹って二本あるでしょ? 濃い虹と、その外側の薄い虹と。
女    うん。知ってるよ。
死んだ女 お姉ちゃんはね、その薄い虹の上を歩いてたの。
女    ‥‥‥。
死んだ女 そしたら、濃い虹の上の方から歩いて来る人がいてね。
女    え? ‥‥それは誰?
死んだ女 さあ、誰だったのかしら? お姉ちゃんは、初めママだったように思ったんだけど、違ったのかもしれない。‥‥それで、その人が手を振って、一緒に行こうって。
女    え? どこへ?
死んだ女 虹の上。
女    虹の上?

     音楽。(「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンド」ビートルズ)

死んだ女 虹をずっとずっと歩いて行ったの。何日も何日も。やがて空が青から群青色になって行って、ああ、ここが宇宙なのかなと思った。いつもより太陽がギラギラしていて、それで星がいつもよりくっきりと見えたわ。隣にいた人はいつの間にかいなくなっていて、虹もいつの間にか消えていた。振り返ると、青い大きな星が見えていて、それが地球だったのよ。それで、「ああ、私、死んだんだな」って思ったの。でも、不思議と恐くもなかったし、さみしくもなかった。気づいたら、私の体がだんだん薄くなっていて、透明になって行くのがわかった。「ああ、私は消えてゆくんだな」って思ったの。なぜだか自分の死を素直に受け入れられた。そして、死ぬって受け入れられることなんだと思った。大きなものに受け入れられて、そして大きなものの中に溶けて行くのよ。これがね、案外気持ちいいのよ。ルナもいっぺん死んでみたら?
女    ‥‥うん。
死んだ女 消えるけど消えないの。死ぬけど生まれるの。終わるけど始まるの。そうして、今ここに生まれたの。そして、それは新しい死出の旅の始まり。‥‥ただいま。
女    ‥‥おかえりなさい。

     音楽、止まる。

死んだ女 でも、あの人、誰だったのかしらね?
女    それは‥‥三十六年後の私?
死んだ女 え? まさか?
女    そうよね。
死んだ女・女  アハハハ‥‥。

      音楽。(「ジュピター(オルゴール)」)
      ゆっくりと溶暗。

                               おわり

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