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アンチワクチン・<真理>・装う権力

はじめに

「命を救え!」「ワクチン反対!」

日比谷公園から放たれた声は、道を挟んで向かい側にあるビルに衝突し、アスファルトで熱せられた空気とともに上昇する。

彼らが主張するのは、ワクチンへの反対だけでなく、それを通じた信念体系への挑戦である。アンチワクチンの議論は往々にして陰謀論に結びついており、その特徴として、信念体系が単一論理で説明可能であることが挙げられる(注1)。その信念体系の中において、アンチワクチンはひとつの「真理」なのだ。

彼らと僕らを区別するのは簡単ではない。僕らもまた、何かしらの信念体系の中で「真理」を見つけ出そうとする姿勢に価値を認めて生きている。ではなぜ彼らは、いや、僕らもまた、何かしらの「真理」を求めて生きるのか。そして「真理」を求めて生きることは、現代においてどのような形で(不)可能となっているのだろうか。

(注1)辻隆太朗(2021)「陰謀論へのイントロダクション」『現代思想2021年5月号 「陰謀論」の時代』pp.42-58.

1.なぜ「真理」を追求するのか?-関孝和とエウクレイデス

どこかに隠されている「真理」を見つけだそうとする態度は、科学的思考を支える基礎的な価値観として、現代では自明視されているように思える。しかし考えてみれば、これはとても不思議な態度だ。真理がわかったところで腹は膨れないし、お金も儲からない。人々はどうして「真理」なんかを気にするのか。このことを、数学史を補助線に考えてみたい(注2)。

日本数学史のスターとして関孝和がいる。彼の優れた点として、数学を「方法」から解放したことが指摘されている。江戸時代の数学の伝統は中国のそれを継承し、師匠が問題を出して弟子を解く、ということを繰り返すものであった。言い換えると、常に個別具体の問題があり、それに解答を与えることが数学であった。

しかし関は個々の問題解決に飽きたらなかった。例えば江戸時代ではすでに算木を用いて方程式を解くことが方法論化されていたが、関はそこからさらに進み、解の分布や解と係数の関係、すなわち方程式そのものを研究対象とした。ここにおいて、方程式は「方法」から解放され、数学的な「真理」の手がかりとなる。ここに関の凄さがある。

しかし関にも限界があった。その限界とは、「証明」の不在である。関はかなりの程度まで一般理論を構想していたことが指摘されているが、しかし江戸時代には証明という概念がなかったため、その一般理論の正しさは例示によってしか立証されなかった。これは関の限界というよりも、中国を中心とした漢字文化圏の数学の限界というべきであろう。

ここで一度立ち止まって考える。確かに西洋数学を学んだ現代の我々から見れば、証明のない東洋数学に違和感を覚えるだろう。しかしむしろ、違和感を覚えるべきは、証明がある西洋数学の方ではないだろうか。証明というのは、特異な文化の産物と言えるのではないか。

数学における証明を考え出したのは古代ギリシア人であるとされているが、証明という発想は他のどの古代文明からも出てこない。また、厳密な証明を行った最古の書物として知られるエウクレイデス『原論』は、江戸時代にはすでに日本に入ってきていたようだが、全く受容されなかった。これは憶測だが、エウクレイデスを読んだ江戸時代の数学者たちは、その理論以前に、「真理」を追求しようとするモチベーションが理解できなかったのではないだろうか。

(注2)上野健爾・小川束「江戸の数学から見えてくるもの」『現代思想2021年7月号 和算の世界』pp.8-21.

2.では「真理」は得られているか?-プラトンとローティ

一方、証明という形で古代ギリシアで花開いた「真理」への姿勢は、プラトンによって哲学の基本的態度として導入されていく。プラトンはアカデメイアの設立以前にイタリアでピュタゴラス派と出会っており、それとの因果関係は不明であるものの、プラトンの思想の根幹に数学的なイメージがあることは広く知られている。

何にもまして彼にインスピレーションと喜びを与えた学問は、数学と芸術だった。これらは(プラトンの考えによれば)……たとえば直線や円や平方根というような、抽象的でありながら実在性をいささかも失わない普遍の概念を重点的に考察する学問である。……完全な球という概念をどこかで獲得したのでなければ、どうしてオレンジの形を球状と認識できようか、とプラトンは推論した。純然たる正義について何らかの概念を有していなければ、特定の政治組織が不正であると、どうして判定することができようか?けれども、自然界には完全な球体は存在せず、既知の世界には純粋に公正な国家は存在しないとすれば……これらの概念はいったいどこから来るのだろうか?それは自然界や人間社会の外に存在する、永遠の形相もしくはイデアの領域にほかならない。……つまるところ現実世界は、模倣不可能な傑作を不細工にコピーしたようなもので、実在してはいないのだ。(リチャード・E・ルーベンスタイン『中世の覚醒』pp.65-66)

知識の確実な基盤としての「真理」(イデア)を追求するプラトンの態度が、その後の西洋哲学の基本的な態度となっていることは、ホワイトヘッドの「ヨーロッパの哲学伝統の最も安全な一般的性格づけは、それがプラトンについての一連の脚注からなっているということである」という発言からも窺い知ることができる。

では、哲学の目的が「真理」の追求であるとして、哲学は果たしてそれに成功しているのか。これについて検討すべく、プラトン的な「真理」への態度を「認識論的衝動」として批判したローティを参照する。

ローティはまず、「◯◯」と<◯◯>を区別する。後者は、「心や魂や精神のすべてをかたむけて追求されるべき目的や基準、究極的な関心」がその中に先んじて盛り込まれている概念だという。たとえば哲学であれば、「哲学」が単にディシプリンを表す言葉に過ぎないのに対し、<哲学>とは、「より多くの真理を信じ、より多くの善を行い、より合理的であることができると考えられている」営みのことを指す。その上でローティは以下のように述べる。(なお、これ以降はローティに倣って、ここまで「真理」と書いてきたものを<真理>と書くことにする。)

わたしは……<哲学>、<真理>、<善>、<合理性>が相互に固く結びついたプラトン的諸概念であることをはっきりさせようと思う。プラグマティストによれば、哲学にとってもっとも望ましいことは<哲学>を行わないことなのだ。<真理>について考えても真なる何かを言う役には立たないし、<善>について考えてもよい行動をとる助けにはならないし、また<合理性>についてもだからといって合理的でいられるわけではない、とプラグマティストは考えるのである。(リチャード・ローティ「プラグマティズムと哲学」pp.26-27『プラグマティズムの帰結』pp.22-102)

ローティは、カントによって完成された、あらゆる知識に根本的な基礎を与えようとする試みとしての認識論的哲学の伝統と、それを批判する伝統の二つによって西洋哲学史を捉える。後者の筆頭としてヘーゲルやニーチェがおり、ハイデガーやウィトゲンシュタインやデューイがおり、フーコーやデリダやドゥルーズがおり、クワインやセラーズやデイヴィッドソンがいる。

この二つの伝統の闘争に対して、ローティは、前者の「哲学」に巣食う<哲学>を批判した後者もまた<哲学>から逃れられていないことを指摘した上で、<哲学>なき理論的思考として「解釈学」を提唱し、その双方から距離をとることを試みる。この認識論から解釈学への以降は、原理の変更ではなく消滅である。哲学はもはや根底的な基礎づけという責務を担えない。ここにローティは「哲学の終焉」および「ポスト<哲学>的文化」の到来を主張する。

「解釈学」の時代にも、プラトンやカントは相変わらず読まれ続けるであろうし、哲学者や哲学の教授といった人々も存在し続けるに違いない。しかし、哲学をかつて動機づけていた衝動は、そこでもはや感じられることがないのである。人々はそこでは異なった動機から-すなわち真理に近接するためでも、世界の秘密を見出すためでもなく、ただ自分たちとは異なった人々に出会うために-書物に向かうことであろう。(吉岡洋「解説」前掲書p.597)

3.<真理>がないならどうなるのか?

「ポスト<哲学>的文化」とは、あらゆる種類の言説活動があるがままに任せられる文化である。そこではいかなる真理要求も相対化される。これに対する強い反発があることは容易に想像できるだろう。例えばこの文化では、ファシズムに対して間違っていると言えなくなってしまうのではないか。

ローティもそのデメリットを認めている。<真理>が消え去ることで、確かに我々は極めて重要な何かを失うかもしれない。しかし、それは啓蒙主義が宗教を駆逐した時も言えることであり、そのリスクを負ってでも我々は啓蒙主義を選択した。それと同じように、リスクを負ってでも、特定の直感を特権視する啓蒙主義から離脱すべきであるとローティは説く。では、<真理>なき世界において人々はどうなるのか。

世界から<真理>が不在になったが、しかし人々の<真理>への期待が消滅するわけではない。ローティが「認識論的欲求」と呼んだその期待は、<真理>不在となってこそより高まっていく。しかし<真理>はない以上、誰もが各々で<真理>に代わる何かを見つけなければならない。カントロヴィッチの『王の二つの身体』において、王は無限の神性と有限の人性がもたらす不可能性の苦悩と共にあると指摘されているが、現代の我々もまた、<真理>の代替物を自ら獲得するという不可能性の苦悩に突きつけられている。

この不可能性に突きつけられた人々が行く先は様々であり、陰謀論もその一つである。しかし、<真理>から見放された人々の多くが期待するものとして、統治機構の持つ政治権力は挙げざるを得ないものだろう。そしてこの危険性は重々理解しているつもりである。<真理>なき人々を動員する全体主義の恐怖は大衆社会論などで語り尽くされてきたテーマではあり、生きる指針を求める人々の指示を巧みに刈り取っていく権力の狡猾な様を記述した書籍は枚挙にいとまがない。そしてその記述は、アナロジーとして、現代政治においてもたびたび参照される。

その基本的な認識に異論はないものの、果たしてそれだけに回収されるのか、という疑問も残る。権力は人々の<真理>要求を本当に飼い慣らすことができているのか。むしろ人々の<真理>要求に振り回されつつ、しかし擬似的な<真理>たるべく、必死に無謬性を装う陳腐でハリボテな姿もまた、統治のリアリティなのではないか。

おわりに

一度<真理>の悦楽を知ってしまった人間にとって、<真理>不在の世界は耐え難い。しかしプラトンに立ち戻って考えるなら、<真理>は本来この世にはあり得ないものなはずである。我々ができることは、その不出来さに嘆息しながらも、<真理>をひたすら代替することだけなのかもしれない。

踏んだらその瞬間に消えるブロックで溶岩を渡るマリオのように、ステップだけを置いて、そんなものなんてないと知りながらも、世界の秘密を目指してブレイクする。それがユートピアかディストピアかなんて、誰にもわからない。

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