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脱臼したことばの先に -千種創一『千夜曳獏』-

まずものがあり、それを表すためにことばがある。そんな素朴な直感をひっくり返したのが言語論的転回である。言語論的転回についてここでは詳述しないが、とても大雑把に言えば、まずことばがあり、それが表す先にものがあるという考え方だ。

この考え方はすごく窮屈に思える。ことばという、あまりにも限定された地面の上でしか僕らは踊れない。それは考えることの無限性を信じたい人間にとって、時に残酷にも響きうる。まるで檻の中に閉じ込められているように、首と胸のあいだあたりが苦しくなる。

では、なんとかその絶望を回避できないか。仮にことばが先にあったとしても、ことばの地面なしに思考できないとしても、それでもことばを出し抜いてやることってできないだろうか。たとえ一瞬であっても、ことばが追いつかない地平に、僕らは辿り着けるのか。

千種創一はこの問いにひとつの答えをくれる。ことばとともにことばの先に行くにはどうすればいいか。千種はことばを脱臼させることで、それを実現する。

優しいと言われるたびに欠けていく神殿がある、曇りの丘に

「優しい」と「神殿」。この二つの語彙を、千種は見慣れない形で結びつける。それはぼくらが普段使うことばにはおよそ見られない、奇妙で不自然な同居だ。しかし、その不自然さは、どこか懐かしさや既視感に近い感情を呼び覚ます。そしてぼくらはいともたやすく思考に誘われる。

神殿とは何か。曇りの丘とはどこか。誰に優しいと言われるのか。なぜその神殿は欠けていくのか。これは一体なんなのか。掴みきれなくて、しかし何かわかるような気もしてしまう。この絶妙な距離の接続を千種は巧みにやってのける。

駅までをふたりで歩くふたしかな未来を臓器のようにかかえて
白皿に茄子を裂きつつ未来とは時間ではないいつか行く島

未来と臓器。未来と島。千種の結節の前と後では、これらの単語はずれている。単語単体の意味ではなく、言語ネットワークによる位置、他の単語あるいは文法との連関の中にある何かがずれている。それを僕はことばの脱臼と呼びたい。

ありうべきことばから大きく外れることはなく、しかし決定的に何かがずれている。そのずれは、蝶のはばたきから始まるうねりのようにことばの世界に波及していく。確かに未来とは島なのかもしれない。とすると現在とは、過去とは、そして茄子とは…。

脱臼は脱臼を呼ぶ。そして元の場所に帰ってきた時、ぼくらは知る。「元の場所」はもはやなくなっており、あるのは脱臼後の新たな言語世界である。脱臼前と脱臼後、どちらも言語世界である。ことばの外側には来ていない。でも、そのことばが全く別様に組み変わる可能性が常に存在している世界。ぼくらがいる世界は実はそのようにできていて、ぼくらはことばとともに、ことばの先にいくことができる。

ぼくはそう信じていたい。

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