BFC落選展「風船」


 風船を持って、車に走っていくんだ。車はベンツかセンチュリーか、わからないけど黒く光ってて、後ろの扉が開いてる。僕は風船の紐を持って、走っていく。車に乗ろうとすると、手に風船がないの。見上げたら、赤い風船が、空を上がっていくところで。僕は風船を持ったまま、車に乗りたいのに。「泣かないで」うん。「風船が飛んでいったのに気づいたとき、どんな気持ち」わかんない。悲しい、とか、怖い、とか。「風船の紐が抜けていくとき、手にはなにも感じなかった」うん。「車の中には、誰か乗っていた?」わかんない。でも後ろの座席には、いなかった。向こう側の窓からも、同じように公園が見えたから。運転席には人が居たかもしれない。「助手席は」わかんない。「じゃあ次は、風船を離さないように。頑張れるかな」うん。

 少年は風船の紐を、強く握る。空を見上げる。風もないのに、風船が左右に踊っている。先程は、赤、と言ったが、よく見ると、紫に近かった。十メートルほど先に停めてある車は、伝えたとおり黒だった。子供がはしゃぐような声が、遠くで響いている。道路をまたいだ向こうの公園で、シャボン玉を吹いているらしい。車と少年のあいだを、白い犬が横切る。どこかで音楽が鳴っている。後部扉が、ゆっくりと開く。呼ばれた気がして、走っていく。風船を離さないように、指先に力を込める。見た感じ、やはり後部座席には誰も乗っていない。紐を引っ張られたような気がし、風船。意識する。車が近づく。視界が一瞬ぼやけた。景色が歪んでいる。目を擦ると視界が戻り、気づけば、車の前に立っていた。手の中に紐はない。中空で風船が揺れていた。後部座席に座り、少年はそれを見上げている。扉が静かに閉まる。

 赤じゃなくて、紫だった。「どうして風船を離してしまったのかな」どうして…わかんない。「泣かないで」うん。あ、目が変になった。「目が。それは目隠しをされたとか」いや、なんか、ぼやけたみたいな。一瞬「さっき、向こうの公園でシャボン玉をやっていたと言ったよね」うん。「それが、目の前に飛んできたとか」わかんない、そうかも。「車の中には誰か乗っていた」わかんない。後ろの椅子にはいなかった。「運転席と助手席は」わかんない。「じゃあ次は、もうちょっとだけ手を意識してみて。それから、車に乗る直前、君の視界はふさがる。目を瞑ってもいいから、手は離さないで」わかった。

 少年は風船の紐が、たしかに指に触れていることを意識する。車の向こう側で、シャボン玉が飛んでいるのが見える。車と少年のあいだを、白い犬が横切る。ヨークシャテリアだった。頭部にリボンを着けている。音楽が鳴っている。曲に聞き覚えがある。夕方五時から放送されているアニメのエンディングテーマだ。後部扉が、ゆっくりスライドする。さあ早く。呼ばれた気がして、少年は駆け出す。風船、手、紐。ぎゅっと握る。後部座席の扉に手をかけたところで、視界が揺らぐ。シャボン玉じゃない、多分。もっと、濡れている。目と鼻が、濡れている。手を開く。紐がない。

 ごめんなさい。「謝ることはないよ」うん。「でももうわかった」なに。「君は、泣いていたんだね。車に乗る直前に。涙が出てきて、視界がぼやけたんだ」なんで、僕は嬉しかったんだ。「嫌だったんだよ。嫌で嫌で、仕方がなかった」なんで。「次で最後だ。君に言えることは、これひとつ。なにがあっても、泣かないこと」うん。

 少年は手の中の紐を見る。車の向こう側で、シャボン玉が飛んでいるのが見える。車と少年のあいだを、ヨークシャテリアが横切る。その名前を知っている気がした。音楽が鳴っている。アニメの主題歌。比較的近いところから、もしかしたら服の中かもしれない。さあ早く。呼ばれた気がして、少年は駆け出す。行きたくない、怖い。風船、手、紐。触れてる、持ってる。怖い。でも泣かない。泣かない。目が濡れかけて瞼を閉じる。泣いてない。開く。視界は明瞭。後部扉に手をかけ、乗り込む。まだ風船の紐を掴んでいる。運転席にいる男が振り返る。「お父さんとお母さんが事故にあったんだ。いま、病院で手当てを受けてる」それは本当なの。「本当だ。結構危ないらしいから、急いで行こう」助手席から女が顔をのぞかせる。「そんなものは持っていないほうがいい。病院には持ち込めないの」手を伸ばしてくる。紐を握っていたはずが、手にはスマートフォンがある。紫のシリコンカバーを着けている。愛犬の写真。音楽が鳴っている。画面の表示には、母の名前があった。女の手に奪われる。

「よく泣かなかったね。えらいよ」うん。「いまはいいんだ、存分に泣いて」うん。「君は、見たんだね。二人の顔を」うん。「それは、知っている人だった?」うん。「その人たちを、好きだった?」わかんない。「信用していた?」してない、と思う。「その二人は、君の家の向かいに住んでた夫婦だね」…うん。「お父さんもお母さんも、君のことが大好きだ」うん。「それだけが、本当だよ」うん。

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