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あの子のこと

2021年初夏。中学の同級生のグループラインに、「⚫︎⚫︎誕生日だから集まろ〜!」というメッセージが投稿される。新宿の外れに、ホテルを1日借りてホームパーティみたいな事をやる。外装はぼろいが、中身はしっかりリノベーションされて、一人前の見た目である。集まった人間たちは、飲んだり食ったりを好きなだけやって、そうして部屋を後にする。どんちゃんどんちゃん。心地よい時間が流れる。

楽しい時間を過ごした後、私は所謂プレゼント的なものを準備していなかったので、「主賓の⚫︎⚫︎の分は、僕が持ちます」と言って1万円弱を支払った。誰も聞いていないのに、「金だけは稼いでいるからさッ」と、気にしていないような素振りを心がけた。そ〜ぉ?ありがと〜、と、感謝の情を緩く表現してもらったことに、それなりに満足して家路に着く。

さて、2021年晩秋。オムアキさんの誕生日を祝うためには、最低でもこの辺りには準備しておきたいぞという頃になって、私は自分の誕生日がもう何年も、何十年もまともに祝福されていないことを思い出す。いや、そんなことを被害めいた口調で烏滸がましく捲し立てるのは普通に間違っているのだが、事実として、他人に何らかの行動を起こさせるほどのイベント力を持ち合わせていないことは確かで、そのことを実感するためだけに、私の誕生日は毎年律儀に発生する。

通りすがりざまに「おめでと〜」とか言ってもらうことを「祝福する」とカテゴライズするのであれば、私は確かに「祝福」されている。でもそうなん?ホンマに?と思っている自分がいて、そういう自分が頭の隅っこで、「お前は惨めだね」と言い聞かせるように囁いていて、「そんなことはない」と思うために、私は毎日を積み重ねているのに、努力が水泡に帰す瞬間には、爽快感など全くないのだ。

私は誕生日をどうしても祝われたいなどとは、殊更に強く思わない。自分に他人の時間や金銭を奪うだけのVALUEがあるとは思わないし、実際そうしてもらったところでめっちゃ疲れるのである。自信がないというよりは、単に自意識過剰なのである。しかもマイナスの感じで。人に嫌われているに違いない、面倒がられているに違いない、そういう証拠を、他者との関わりの中になんとしても見出そうとする性分は、自分が「一般並み」の社会生活を享受していない(と感じる)こと、自分を認めたくないことへの言い訳を探すために身についた、自衛行動である。

でも、でも、でも。「普通の人」って、今↑に書いたみたいなくだらない自意識の壁なんてぶち破ってくれるような他人との関わりがあって、トモダチのサプライズでクラッカーとか鳴らされて、「え〜〜?俺こんなの嫌なんだけどぉ〜」とか言いながら、満更でもない様子でケーキの火吹き消してんじゃないの?違うの?大丈夫なの、これで?人間の人生って?という疑念がどうしても拭えない。え、虚空を眺めて1日終わる感じでOK?まじで?別に自分がどう感じるかなんてどうでもよくて、「他人が見た時にそれらしいかどうか」ということだけが自分の人生の質を図る尺度の浅はかな人間なので、そこだけははっきりして欲しい。俺は「大丈夫」なのか?

自分の状況を戯画化することで冷静になることができる今なら、心的ダメージを軽減できるのだが、ジュビナイルの私はもっとずっと過敏で過剰で過激だったので、いちいちこんなことで自家中毒を起こして、病んだ張ったの繰り返しだった。かわいそう。とにかく、誰かに「大丈夫」だと言って欲しかった。いいんじゃない?とか、そんな曖昧な肯定の仕方じゃなくて、自信を持って「大丈夫だ!」と言ってもらいたかった。

だから、私は眠る時、起きる時、脳に住んでるその子に、「大丈夫だよ」と言い聞かせることにした。だって「大丈夫」だったんだから。まだピンピン生きてるじゃん。

そもそも、この一連の文章から分かる通り、私には何かを他人に「与える」という観点が深刻に欠如していて、それが端的に自分に帰ってきているだけな気もしている。だから、私は脳に飼っている幼い自分に優しくしてあげることにした。不安の中で過ごしてきた何年もの間、苦しかった自分に、「大丈夫だよ」と言ってやるのだ。


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