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仕事と人間についての一考察

この冬はよくスキーをした。新潟に、山形に、群馬に、とにかくできる限りの時間と金を雪山エコノミーに注ぎ込んで、氷上を滑走することに努めた。雪が降ると、音が消える。周りがみんないなくなってしまったみたいな静寂が山を包み込んでいて、その一部になるのが大変心地よく、クセになる。

そんな自然と私との邂逅を妨げるのは、いつだって労働なのだ。リフトに乗っていようが、新幹線でうたた寝していようが、脳裏には常に「仕事」のことが浮かんでいる。メール出さなきゃ〜とか、会議の準備しなきゃ〜とか、そういう類の邪念は自然界によって払拭されることなく、執拗にわれわれ労働者を追い詰める。どこまでも限りなく、つきまとう労働。人間哀歌である。

ところで、「私は労働がきらいだ!」と他人が愚痴っているのを聞くにつけ、私はその言葉が常に幾許か自己礼賛のような夾雑な響きを含んでいることを見逃せない。「仕事がさ〜」の枕詞から展開するストーリー、そこに、だらしない恋人との痴話喧嘩のエピソードでも披露するかのような、あなたの恍惚をみてとらずにはいられないのである。

だって、そのエピソードに私が「そんなに嫌なら、仕事辞めれば?」って返すのって、きっととても無粋ですよね。喧嘩ばかりしている恋人とと決して別れない理由があるように、あなたがその仕事を続けていることには、きっと「慣性の法則」みたいな単純な話では説明できない、仕事とあなたの複雑な関係があるのでしょう。他人はそこに介入する権利も言葉も持たない。

例えば、その仕事には、あなたの存在、あるいは、あなたしか発揮することのできないなんらかの価値、スキル、能力、人格などの極めて属人的な要素、が必要とされているのだ、とあなたが感じているとしよう。もちろん、本当はあなたがいなくたって、たとえば明日やめますと宣言したところで、現場の人がちょっと困るくらいの影響しか与えられないのだが。でも、あなたにとってこういう感覚はとてもリアルなはずだ。たとえ自分が代替可能な存在であることを論理的には理解できていても、実感として感じられる人は少ない。

「そんなに嫌なら、仕事辞めれば?」という言葉は、「あなたが思っているより、あなたの存在は重要じゃないんですよ」というメッセージなのだが、そんなことはひとえに「大きなお世話」なのである。私は、「私が必要とされている」、と感じている。そのこと以上に重要なことがあるだろうか。

人間が代替可能な歯車にしか成り得ないのは、近代社会がゲゼルシャフト=目的共有的な共同体、として組織されているからであり、合目的的な存在であること以外の生存を許されないからである。つまり、本来であれば前目的的に存在しているはずの私、を肯定的に捉える方法が、ないのだ。いやいや、ゲマインシャフトってのは例えば家族とか地域社会みたいなもののことを言うんじゃないの?そういう前目的的な共同体が全くなくなったわけじゃないでしょう、と反論する人もあろうが、それでは一体どのくらいの人が家族だとか地域社会みたいなものを前目的的な共同体だと感じているのだろうか、と嘆息を禁じ得ない。あなたの家族は、あなたに「どんなことがあっても」その存在を肯定してくれるだろうか?ほんとうに?

人間は宙ぶらりんな状態を嫌う。何かに所属したい、束縛されたい、命令されたい、というのは普遍的な欲望である。消極的自由はよくても、積極的自由はだめなんだ、とエーリッヒ・フロムが言ったのはその通りで、私たちは何かに抑圧されていないと正気を保てないのである。自分を超えた何かに、自分の存在のあり方を縛られていないと、定まった自我を持つことができない。浦沢直樹『PLUTO』で、何千万人もの人格データを注入されたアトムが、目覚めるために「強い感情」を必要としたように。

ポストモダンの評論用語に、「再魔術化」という単語がある。近代社会は、脱魔術化の時代だったということは、すんなり受け入れられるだろう。宗教や魔術の類は打ち捨てられ、新たな合理的理論体系として科学が覇権を握ったのはご存知の通りである。ところが、ポストモダン社会では、科学的な合理性とは全く別の論理体系に依拠した主張が隆盛している。これを例示するのは、陰謀論でも宗教的原理主義でもポストトゥルースでも良い。近代社会で了解されていた科学的合理性のヘゲモニーを覆すかのように、世の中に論理体系が乱立している状況こそが、再魔術化の現象である。

とはいえ、私はこのことがポストモダンに特有の現象だとは思わない。こんなことは多くの人たちが既に指摘していることだから、かいつまんで言わせて貰えば、近代社会はそもそも魔術的な側面を必要としているのである。科学的な合理性のもとで、存在を限界まですり減らしていく人間を包摂するために、わたしたちは常に非合理的な「余剰」を欲している。私たちの存在を、科学の言葉で書き表せない非合理的な何かに還元する、超越的な存在を欲している。というか、そういう超越的な他社が「存在しうる」という予感が、私たちをかろうじてこの非人間的な社会の中で延命させているのである。

あなたが「労働」という仕組み、あるいは「会社」という共同体にとってかけがえのない存在であると感じるのは、科学的合理性によって駆動する企業というゲゼルシャフトにおいて、あなたという人間を前存在的に肯定するだけの材料を調達しうる、という「神話」を信じているからに他ならない。それは、あえて言語化すれば、科学的な合理性の究極に「人間」の肯定/福音が訪れるという、加速主義的な世界観なのであろう。

その「神話」が信じるに足るかということが重要なのではない。我々の存在は、常にこういう合理性の「余白」を必要としているということに気づくべきなのである。「だったら辞めてしまえ」という言葉が無粋なのは、「神話」という全く別種の論理体系を持つ世界観に対して、科学的合理性の言葉を以って対抗しようとするからである。

人間は常に合理的であれという命題を忠実にこなそうとするが、その合理性を複数の論理体系から担保しなければ安定した自我を保つことができない。それは誰でも同じである。そして、神話の中から「外」は見えない。「外」が見えたら、神話は、「神話」たり得ないからである。

しかし、「外」を想像することはできよう。再魔術化された島宇宙を生きるわたし達が、相互理解を図るために必要なことは、自分を包みこむ神話世界の体系を少しでもメタ的に認知しようと試みること、そして人間はみな「余剰」を求めているという先人の言葉に耳を傾け、その神話世界の「外」に目を向けようと試み続けること、その二つに他ならない。

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