見出し画像

もう何もかもやめたい、と思ってしまう時、どうしたらいいのかな。

急に何もかもどうでも良くなってしまう瞬間というのがあって、そんなものはないほうが良いに決まっており、いつになったらそういう低空浮上みたいな状態を脱することができるのであろうか、と考えていたら、夏が通り過ぎてもう秋に片足を突っ込んでいる。

誰かのことを必要じゃなくなった瞬間、スッと魂が抜ける関係というのがある。「もうお前は用済みだよ」と、ヘルタースケルターのリリコが見るママの悪夢。誰かと繋がっているという感覚がない人間は、とても脆くて折れやすい。人生が綱渡りなのだ。全ての出会いが偶然で刹那的であったら、みんな平等できっと良いことだろう。先生が手前勝手に決めてしまう席替えのように。

高校生の時、マツコデラックスが、有吉弘行と並んでいる様を眺めているのが好きだった。どちらも種類は違えど、たしかな孤独を抱えた人間に見えていた。マツコはことあるごとに、自己存在にかかる極めて根源的な不安を吐露していたが、それが有吉に理解できないものであろうということを的確に見抜いていた。マツコの自意識は何周も回って超内省的だったから、自分の抱えている穴が、他人と共有し得ないものであることをよく理解していたのだと思う。

しかし、それでも、そこには確かに刹那的な連帯があった。同じ方向を向けるところだけでしか他人と向き合わない有吉と、それを理解した上で、偶々巡り合った隣人である有吉と、穏やかに時間を共有するマツコ。どちらも孤独を称えていて、それがとても心地よかった。

そんな中途半端で、味のない繊細な時間が、誰にも平等に、均等に、一生流れ続けていれば良いのに。俺はたまたま今日出会った誰かの話を一生聴いていたい。全員がそれで満足している社会に生きていきたい。全員が透明であることを当たり前の様に受け入れて、かつそうであるべきだと思い込んでいる世の中になってほしい。そして、そうでないことが、たまらなく不安で孤独で耐えがたい。苦しくていっそ死んでしまいたいと思うほどに。

遠足のバスの中では、たった今目に入った風景が瞬間に後ろに流れていって、二度と思い出せなくなる。子供の頃から、俺は、そういう時間がずっと続けば良いと思っていた。その後、誰かを見つけて一緒に動物園を回る自由時間なんて、一生来ないでほしかった。

全部、全部が一生延期されていれば良いのに。大事なことは全部後回しにされていて、バスは渋滞の中で、延々と人を同じ座席に縛り付けていて、孤独と退屈と諦念の中で穏やかに穏やかに、人間がみな笑っていればそれで良いのではないのか。なぜ席を立たねばならないのだろうか。家に帰って仲良しの子と話す恋話、誰が誰を嫌っているという噂話、そんなもの、ないほうがいい。

俺はいつまでも、仮病を使って体育の授業をサボって、図書室で体育座りしているあの時のまんまなのだ。あ〜あ、来ないでほしいことが一生こないまんまだったら良いのにな、と、時計を眺めながら微睡んでいる。そんな時、隣にいる知らない誰かの顔が見れれば、それだけで十分なのだ。マツコもそう思っているに違いない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?