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捨て犬かと思って

実家の近くに、小さな図書館がある。住宅街をウネウネと蛇行する小さな坂道の先に、鬱蒼とした大地主の敷地がぬっと顔を出す。図書館は、その目の前にちょこんと建っている。小さいが、大変居心地の良い図書館で、私は幼い頃から休みの日はここに通って課題をやるなり、本を読み漁るなりしていたものだ。

私の実家は犬を飼っているから、図書館に行くついでに犬を散歩に連れて行くことも多かった。畜生は公共施設に足を踏み入れることは許されないので、図書館の角っ子のゴツいパイプにリードを括り付けて、待たせておく。犬は放っていかれるのかと、耳や尾をこれでもかとばかりに逆立てて大変不安げな表情になるが、人間の都合は曲げられないので、致し方ない。

ある夏の日、私は例の如く犬を炎天下の外縁に放置して、涼しい図書館内で本やら雑誌やらを物色していた。2-30分もして、こんなものかと外に出てみると、なんと犬がいなくなっている。おやおや、と思ってあたりを見回してみるも気配がない。もしかしたら攫われてしまったのか、いや困った、と、今度は捜索範囲を500メートルほど広げてみる。すると、図書館からほど近い児童公園で、小学生くらいの子供が6人ほどで私の犬を囲んできゃっきゃと戯れているではないか。犬も犬で、自分の日常は此の通りだ、と言わんばかりに、満足げな表情を浮かべている。

私は慌てて、『君たち、その犬はうちの犬なんだけど』と声をかける。すると、子供たちはキョトンとして、こう返す。『すいません、捨て犬かと思って』

捨て犬が都会のど真ん中の図書館に括り付けられているかね、と思ったが、しかし彼らの弱きを助けんとする心意気には感心した。ただ犬は返してもらわないといけない。ごめんよ、と言って彼らの手からリードを奪って、そそくさとおうちに帰らせてもらう。犬は子供らに連れ回されてわけもわからんといった様子だが、とりあえず家路に着いたことだけは認識したようで、ごふごふと鼻を鳴らして私の後を歩き始める。

しばらくして、私は思った。子供ら、捨て犬かと思って、それでどうしようとしたのだ、と。公園で追いかけ回して遊んでやることが、その犬に対して何をしてやったことになるのかね、と。『捨て犬かと思って。。。』、いや、なんなんだね。全く、子供というものは後先考えずに行動するものだ、とややも憤慨したものである。

時は下って令和3年11月。私は実家を離れ、台東区の隅っこでひとり暮らしをしている。諸事情あって仕事も休んでプータローをしている私は、社会の隅っこで、誰と会話することもなく1日を終える。ところが、存外に私はそれが心地よくもある。何もしなくても良い、誰でなくとも良い、そういう時間を過ごしたのは生まれて初めてである。あぁ〜何もしなくて良いってサイコ〜!と言いまくっている。ベッドの上で煎餅をバリバリと食らい、その粒を部屋中に放っている。脱ぎ散らかした洋服の山が、テレビを眺める視界を邪魔するくらいの高さになった。台所のシンクは生ゴミのにおいでむせ返っている。寝て起きたら昼になっている。いや、こんな人生、サイコサイコサイコゥッ!!じゃん!!まじで!

しかし、このように思っているのは自分だけで、世間様から見ると私は完全にセルフネグレクトに陥った精神疾患者であり、何らかケアしてもらわないとあかん状態にある危険者であるに違いない。まさに、凶悪犯罪に手を染める前日譚を聞いているかのようである。大丈夫なん?これ。

そんな日常の中で、私が好んで実施しているルーティンがある。それは、大きい公園だとか、公共施設の見晴らしがいいところにドンと陣取って、街の風景をひたすら眺めていることである。パソコンのスクリーンばかりを2年あまりも見つめてきたホワイトワーカーのひょろい男には、預かり知らぬ世界が広がっているのだ、都会には。ババァ相手に怪しい金融資産の営業をしている男女二人組の銀行員とか、国道沿いのガストにつけて昼飯食ってる土建屋の下請けの運ちゃんとか、分刻みのスケジュールでマルチの勧誘タスク捌いてるオバハンとか、学校帰りに用水路で釣り糸を垂らしている高校生二人組とか、そういうのをひたすら眺めているのである。社会ってこんな感じやねんな〜、と感動する。きっとこういうのは老後の楽しみに取っておくものなのだろうがね。私は一足先に、ジジイがなぜやたらと公園に集まるのか、わかってしまったよ、諸君。

正午あたりになると、保育園だとか、幼稚園だとかの子供が大挙して公園に押し寄せる。若い保育士の女が大抵3〜4人ほど付き添っていて、いそいそと子供らを追い立てている。それも終わると、3時くらいになってもう少し背格好のいい小学生がやってくる。これくらいの年になると、行動の中にもある程度の社会性を観察できる。仲間外れだとか、牽制だとか、いじめだとか、異性に対する興味だとか。それも終わって夜になると、高校生の出番である。誰が誰と付き合ったとか、住宅街の隙間でそんなたわいもない話に花を咲かせている。こいつらはもう大人だから、見ていてもあまり面白みがない。ぶつぶつとひとりごちていると、1日が終わる。

公園から眼下の情景を見つめている私の表情は、あの子供らの目にはいったいどんなふうに写っているのだろうか。炎天下、軒先に括り付けられたままの痩せ細った捨て犬みたいに、ひどく惨めに見えるだろうか。だとしたらまぁ、私を拾ってくれて暖かい言葉の一つや二つ、かけてみて欲しいものである。優しくされたいのは犬ばかりじゃない。突然どこにも居場所がなくなってしまうのは、人間だって同じである。

そういえば、「捨て犬」や「捨て猫」のように、「捨てられた人間」を表す言葉は、少なくとも日本語には存在しない。厳密に言えば、「捨て子」という表現はあっても、「捨て大人」という表現はない。大人だって、誰かに甲斐甲斐しく世話をされて、優しくされて、精一杯に肯定されないと、真っ当に生きていけないのだ、ということを、多くの大人が忘れているからだと思う。

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