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残念なはなし

イケメンの生きづらさ、みたいな特集が現代ビジネスかなにかに掲載されていて、さっと読んだ感じ①同性にやっかまれる、②異性との付き合い方に気を使う(相手が自分を好きにならないように常に気をつける必要がある)、③日常的に性的な目線に晒されてストレスが溜まる、みたいなことがツラツラと書き連ねられていた。あ〜ハイハイ、上級国民の「俺だって辛いんです」マウントですか、くたばれ、死ね、といつもなら掃いて捨ててしまうようなものだったのだけれど、ところがどっこい私も歳をとって、ちょっと感じるところがあった。

魅力資源というのはジェンダー分析の中でもかなり重要な概念である。鈴木涼美あたりがこの辺はかなり通俗的な言葉でビビッドに書いてくれていて、興味があれば彼女の著作か、エロティックキャピタルにかかる下記の本などをお勧めします。

話を戻すと、私は自分にエロティックキャピタルが備わっていないと言うことがかなり大きなコンプレックスで、それゆえにイケメンだとか美女だとかみたいな連中が織りなしている「パリピカルチャー」みたいなものへの反発がものすごいんだけれども、その負の力の源泉は、おそらく自分があまりに近視眼的であったこと、それゆえに自分自身を相対化する力に欠けていたことだと思う。つまり、「俺が」そう感じているんだから、「イケメン」とか「美女」みたいな魅力資源の保有者こそがこの世のカースト最上位に居るのが、「自明」であると信じ込んでいたこと。「自分」に欠けているものにばかり目を向け過ぎてきた結果、自分が「持っている」ものに目を向ける能力を養うことに失敗したのだ。

ハッとする瞬間は、つい最近訪れた。つうか昨日である。会社の同僚と食事をした時、その人が「とにかく周囲との金銭感覚の違いに戸惑いを覚える、交友関係に支障をきたすレベルになってきているように感じる」、と言い出したのである。

前提から整理しておくと、私たちが働いているのは某外資系コンサルティングファーム、勤続3年目にして日本人の平均年収を大きく上回る額を会社から頂戴している。その代わり精神的な健康も時間的な自由も何もかも奪われているわけだが、資本主義社会においては「労働」と「資産」こそが原理であり力であり正義というわけである。そんな状況だから、当然金が貯まる。だって使い所がないのだ。遊びに行くにも平日仕事が終わるのは大体9時を回ってからで、9時以降だって間に合うかわからない。おまけに趣味に費やす時間も体力もない。とにかく金が貯まるのだ。

だから、本当に正直に、「普通の同年代の人間の金銭感覚」がわからないのである。そしてどうなるかというと、誰と会うにも気を遣うようになる。金を持っているのに羽振りが悪いと思われるのが嫌で、「ここは私が」と言って何かと支払いを多く持つようになる。それが当たり前になるのである。その度、「何だかなぁ〜」と言いたくなるような微妙な気持ちにさせられる。それを何回か繰り返すうち、「金に困ってなさそうな奴」としかつるまなくなってくる。それもどれもひっくるめて、「なんだかなぁ〜」という感じである。

そんなふうになってから、現代ビジネスの「イケメンの生きづらさ」みたいな記事を読んでみると、私とこいつらの「なんだかなぁ〜」という感覚は、そう遠くないところに共存しているような気がしなくもないのである。それは、自分が「強き物」、つまり「加害者」として社会に定位されうる存在だと、実感を持って感じられた瞬間に初めてつけるため息である。人間とはなんとも難儀な生き物だ。

この前マッチングアプリで会ったひとが、自分が早稲田卒だと言うことをものすごく何度も何度も言ってくるので、そうですかそうですか、と流していたのだが、私が東大卒であると言った途端に、「学生の時どのくらい勉強していたのか」「センター試験の点数はどのくらいだったのか」「模擬試験の判定はなんだったのか」とか異様な熱量で聞いてきて面食らった。こんな時、私はまた「なんだかなぁ〜」と思ってしまう。私が見て欲しい自分は大学受験の点数が何点だったとか、大学のGPAがなんだったとか、そういう自分ではないのだ。マジマジ。つか覚えてねえよどうでも良過ぎて。

でも、ある特定の層の人は、私がそう言う「どうでもイイのだ」という態度でいること自体に加害性を見出すのである。どうでもイイわけねえだろ!!!ということである。そう、どうでもイイわけねえのである。あらゆる人がどうでもイイわけないなんらかの「穴」を抱えていて、その穴が埋まっている人に向けて粛々と怨嗟のパワーを蓄えている。その連鎖の中で私たちは常に傷つけあっている。時には強者に、時には弱者に、そのグラデーションを行き来しながら、自分が何者であるか、(あったのか)、どの穴が埋まっていて、どの穴を埋めたくて仕方がないのか、段々と分かってくる。

他者の加害性を糾弾する動きで躍動している昨今の世情に対して、私が感じることは、いつかアナタも誰かに糾弾されるんですよ、と言うそのことに尽きる。クィア理論における「ホモ・ノーマティビティ」批判、フェミニズムにおける「第三世界フェミニズム・ブラックフェミニズム」の対等…、「下」の取り合いは壮絶である。だってたとえばさ、10年後とかに「近視」差別が大問題になったとして、メガネを馬鹿にしたことある人の銅像とかが、一斉に薙ぎ倒されたりとかするんだよきっと。それって怖くね?

もちろん、今「声」をあげている多くの人たちは、自分がある側面ではなんらかの「加害性」を有しているとの前提に立って、それでも今目の前にある「不正義」を正すのである、と清濁をあわせ飲んで活動しているのだ、と信じたいものだ。ここは非常に重要なところで、「悪いと思って悪いことをする」のと、「良いことだと信じて悪いことをする」のとでは天と地ほどの差がある。この差を生むのは、ダイレクトに、自分の人生・経験から世の中の摂理を導き出す「知性」の格差であるように思うが、私はごくごく単純に言えばこの社会の「知性」はどんどん劣化しているように思う。

とか言うと宮台真司っぽすぎるかもしれないので、もう少し噛み砕いていれば、今申し上げたような、社会の「前提」が共有されなくなってきているというのが適切かもしれない。社会が再帰性を失っている、つまり、一周回ってこうなりました、の一周目が忘れ去られてきている、ということである。一周目の記憶が形骸化してきた。この一周目の記憶の継承に、社会の「知性」が発揮されるものとすれば、近年そのような「知性」は軽視に軽視を重ねられてきているように思う。私たちは、「あえて」そうしているのだというときの、その確信犯的な「あえて」の部分を絶対忘れてはいけないのである。

この場合の「あえて」というのは、先程の文脈と帳尻を合わせれば、「自分がなんらかの文脈で加害性を有するということは経験的に理解していて、しかし今自分が直面している不条理に対して異議を申し立てるために、そうした部分は今は据え置きにしています。」ということである。

誰もが「穴」を持っている、という「一周目の記憶」が欠落した状態で、ただただ誰かを糾弾する声が連なっている状態が続いている。その事が、憎しみの連鎖を産んでいる。こんな状況が、もう少し危機感を持って受け止められるようになって欲しい、と私は切に思う。

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