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デジタルコミュニタリアニズム試論

定期的に連絡をしてきて「なんかやる気が出ない」「やる事が欲しい」「何かに打ち込みたい」「きっかけさえあれば俺も充実した人生を過ごせるのに」みたいなことを言いやがる連中が俺の周りにはたくさんいる。俺は親切な人間なので、「じゃあ●●をしてみたらどう?」とか提案してやるのだが、そもそもこの歳になって何一つ身についていない人間が、今さら何ができるというのだ、とゲンナリしてしまうのだ。頼むから、頼むから何かを一つ成してくれ、と願いながら俺はいつでもそんな出口のない迷路みたいな「悩み」相談に乗ってやるのだが、今のところ絶望しか与えられていないのが涙を禁じ得ない。

現代社会は本当に奇妙なねじれを見せていると思っていて、こんなにも「長期的な視野で」とか「ライフプランが」とか「キャリアプランが」とかいう言葉が市場には氾濫しているのに、人々はどんどん近視眼的に行動するようになっているように思う。そもそも自分の決めたこと、宣言したことを何一つ守れない人間が、長期的に何かを達成することなんてできるわけがないだろう、と俺のようなひねくれた人間は感じてしまうのだが、あんまりそういう言葉が通じる気配がない。じゃあお前が何かを続けているのか、と問われると痛い思いをしてしまうのだけれども。

自分の人生を振り返ったとき、そこに道ができているのか、今一度冷静に振り返ってみるのはどうだろうか、と老婆心ながら感じてしまう。ちょっとガンバロウとあなたが思ったとき、その気持ちに偽りはないはずで、足りないものは根気と集中力、ただそれだけなのだ。現代社会は可能性に開かれすぎていて、人間の処理可能な情報量を既に大きく逸脱したデータの群に、我々は晒され続けている。Googleの検索ワードを探すだけでも手一杯の我々にできることはただ一つ、情報のソースを限定することに尽きる。ADHD患者の脳内のように、あまりに忙しなく種々の情報のインアウトが発生し続ける現代社会において、私たちに求められる力はひとえに、触れすぎないこと、開かれすぎないこと、その一言に尽きる。

この前宮台真司が鼎談の中で、「世田谷区民証明書」みたいなものを発行するべきだということを言っていて、なるほどなぁと嘆息した。リベラルの議論というのは、境界を引くことの暴力性を強く糾弾する類のものが主流だったはずで、(きっと今もそうなんだろうと思うが)、その結果は境界を開くこと=世界市民的な方向性に社会を開いていくこと、これを理想的な社会の結論として導くのが常であった。この辺りの議論に明るい人であればご存知と思うが、こうした議論はリベラルコミュニタリアン論争に代表されるようなアンチ=リベラルからの激しい反駁にあった結果、普遍主義的なリベラリズムの議論は隘路に追い込まれているのが現状なのである。だって、社会を開いたらテロリストみたいのだって小児性愛者みたいのだって入ってくるわけだからね。そいつらどうすんの?って話が出てくるわけで。

だから、結局のところ我々が善く生きていくには、自分の所属しているコミュニティだとか、社会だとか、環境と言ったものを大切にしていく、コミットメントしていくしかないのだ、という極めて共同体主義的な結論に我々は「追い込まれている」のである。もちろん差別もあるし、犯罪もあるし、不条理もいっぱいあるんだけれど、それらを「訂正」し続けるということによって公共性を担保していこうという考え方である。それは自他の区別そのものを否定する普遍主義的なリベラリズムとは対照的である。

このような政治思想的な潮流というのは、高度な情報化という社会変化の正確な表れとなっているように感じるわけだ。有り体に言えば、世界に開かれよう!どんどん新しい知識を吸収していこう!みたいな態度は、世の中の全体をなんとないイメージで捉えるしかなかった、解像度の低いカメラで社会を眺めることしかできなかった、旧時代の倫理な訳であって、今や隅々までを光学レンズばりの解像度で解析することのできるデジタル社会に暮らしている我々にとって採用しうる立場ではないということなのである。呪術廻戦の五条悟は「無量空処」という技を使うんだけれども、平たくいうとこれは人間の脳に処理不可能な情報を強制的に流入させることで、人の行動を封じるものである。解像度の高すぎる社会において、あらゆる情報に自分を開こうとすれば、我々は無量空処に取り込まれてしまうのだ。

そう言った状況の中で、我々が採用しうる唯一の立場といえば、自覚的に情報の流入・流出をチューニングする力、共同体主義的にインフォメーションの流れを制御することなのだ。自分がどんな人間なのか、どんな人たちに囲まれているのか、どんな社会に生きているのか、それらを再帰的に把握することで、自己の限界を規定すること。これってとても、とても難しいのだ。

世界の全てについて人間が知ってしまったとき、その人はただ「ハロウィン」と呟くことしかできなくなってしまう。ワタシ達が「ハロウィン」以外のことを考えたいのであれば、無限から有限へ開かれること。このこと以外に、生き延びる道などないのである。

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