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運が良かった。ただそれだけでリモートワークの恩恵を受けつづけて良いものか?

コロナ禍が私たちにもたらした影響はとてつもなく大きい。言わずもがな、そのうち9割方はネガティブな影響だ。逼迫した医療現場で働く関係者の皆様は心身ともに疲労困憊だろうし、飲食店や興業や観光業は甚大な経済損失を被っている。コロナ禍で命を失った方は1.6万人に上り、命に別状はなかったものの味覚や嗅覚を失うなど後遺症に頭を悩ませている人も大勢いる。そんな中、「コロナ禍でよかった」だなんてことは口が裂けても言えない。

一方で、100%ネガティブな影響だけだったか?というと、そうではないだろう。ネガティブな影響に比べれば微々たるものではあるが、ポジティブな影響も確実にあった。その最たるものが、各種オンラインツールの普及によって、リモートワークが一般化したことだろう。

一般化といっても、車移動が中心の地域をはじめ、現在は出社メインの働き方に戻っている方も多いが、Zoomなどオンラインミーティングツールが多くの企業で浸透したことで、「オンラインで打ち合わせをする」ことに対する抵抗感が一気に下がったことは間違いない。

コロナ禍で変わった「私」の働き方

今回のテーマは #コロナ禍で変えた働き方 ということで、あえて筆者自身の働き方の変化について振り返ってみたいと思う。

コロナ禍をきっかけに「仕事中心」の生活を見直し、家族やプライベートの時間を大切にするようになった、移住や転職などを伴う大きなライフシフトを決断した、という声を、筆者の周囲でも多く見聞きした。

では筆者自身はどうか?というと、こちらのnoteにも書いたが、5年前、娘が生まれたことをきっかけに「働く時間を半減し、家族と過ごす時間を倍増させよう」と決めてアーリーリタイヤならぬハーフリタイヤ(1日4時間・週20時間だけ働くワークスタイル)をしていたので、「家族中心の働き方」はコロナ禍以前から続けていた。

では、特に変化がなかったか?というとそんなことは全くなく、独立をした時と同じくらいの大きなインパクトをもたらしたことは疑いの余地がない。

コロナ禍以前は、働く時間こそ会社員時代の半分になっていたものの、平日はほぼ毎日、最寄りの多摩センターから片道1時間以上かけて、都心のシェアオフィスやクライアントのオフィスに通っていた。

自宅にも仕事部屋は作っており、快適に在宅ワークできる状態ではあったものの、在宅ワークをする頻度は週に1回あるかないか、という程度だった。

独立して、出社の義務がないにもかかわらず、なぜほぼ毎日都心まで通っていたか?というと、打ち合わせ=対面ありきだったからだ。

筆者の仕事のメインは、法人や個人の方向けのアドバイザー・コンサルティングである。つまり、「人と会って話すことが仕事そのもの」なのだ。講演やセミナー、研修もその一部に含まれる。

もちろん、コロナ禍以前より対面にこだわらずオンラインツールをフル活用している方は存在したが、少なくとも筆者はそうではなかった。

ところが、COVID-19が日本に猛威を振るい始めた昨年1月末から2月にかけて、打ち合わせ=対面ありきという図式が崩れ始め、むしろ「特段の必要がない限り、原則オンラインでやりましょう」という共通認識が一気に広がった。3月に学校が休校になり、4月に緊急事態宣言が出たあたりでは、もはや「打ち合わせはオンライン」が常識になった。

この「打ち合わせのあり方の劇的な変化」が筆者にもたらした影響は絶大だった。

まず「原則毎日都心に出向き、在宅ワークは週1日程度」というワークスタイルが完全に逆転した。昨年の緊急事態宣言下では100%在宅ワークであったし、現在も原則は在宅ワークで、都心に出るのは週に1日あるかないか?という程度である。

また、在宅ワークメインにシフトしたことで、毎日発生していた「往復2時間以上の通勤時間」がほぼゼロになった。

その結果、家族と過ごす時間がさらに倍増したのだ。

「ハーフリタイヤ」によって、会社員時代に比べれば既に家族と過ごす時間は倍増していたが、そこからさらに倍になった、というイメージだ。

往復2時間の通勤時間がなくなった、ということももちろんある。が、それ以上に大きいのは職場=自宅になったことで、仕事と家族タイムとの切り替えが瞬時にできるようになった、というのが一番大きい。

基本、毎日13〜17時が筆者の仕事タイム(多少前後することはもちろんある)なのだが、打ち合わせと打ち合わせの合間はなるべく30分の休憩を取るようにしている

「30分の休憩」といいつつ、打ち合わせで発生したタスクを実行したり、次の打ち合わせの準備をする時間でもあるが、その手の仕事はスマホでもできるし、特にタスクや準備が必要ないケースもあるので「30分の休憩タイム」のほとんどは、自宅2Fにある仕事部屋を出て階段を降り、1Fのリビングで過ごすようにしている。

このわずか30分の休憩時間に妻とたわいない会話をしたり、娘と遊んだりする時間がまた、格別に幸せな時間だったりする。

たまに休憩時間が30分ではなく1時間になることもあり、そういう時は娘と近所の公園に出かけて遊ぶことも。

繰り返しになるが、世の中に甚大な被害をもたらしたCOVID-19は憎むべき存在である。ただその一方で、働き方がガラッと変わったことによって、わが家の「家族時間」は倍増し、夫婦や親子の絆が深まったこともまた、動かしがたい事実なのである。

「自粛」はある種の「特権」である、という話

世の中、苦しい思いをしている方々がたくさんいる一方で、「働き方が変わったことで、家族の絆が深まった」なんてことを呑気に書いたり言ったりするのは、いかがなものか。

そんなモヤモヤ、矛盾を感じたことがあるのは、おそらく筆者だけではないだろう。

そんな折、こんなツイートがふと目に飛び込んできた。

曰く、自粛は特権だと。

全くもっておっしゃる通りだと思う。上記のツイートの元ツイートにあるように、イベントや興行で生計を立てていたり、飲食店を営んでいる方にとっては、自粛だなんて悠長なことは言ってられないからだ。

このツイートを見て、やはり「自粛」は「特権」である、ということへの確信がさらに強固なものになった。リモートメインの働き方にシフトし、これまで通り、いやむしろこれまで以上に効率的に働き、プライベートを充実させることができている、だなんてことはとんでもなくぜいたくなことなのだ、と。

サンデルが『実力も運のうち』で「現在、一定の成功を収め経済的に裕福な生活を送っている人は、それは自らの努力の賜物であり、自らは幸福を享受するに値する存在であると思っているが、それは全くの見当違いであり、ただ単に運が良かっただけであるということを自覚すべきだ」という趣旨のことを主張しているが、今回のリモートワークの恩恵を享受できているのは、自分の実力で勝ち取ったものではなく、「たまたま」リモートワークに移行しやすい職業についていただけである、と筆者は解釈している。こうなることを見越して今の仕事を選んだわけでは当然ないし、リモートワークへの移行が到底難しく、大きな経済的打撃を被る職業についていた可能性だって大いにある。

そう、筆者を含め、リモートワークの恩恵を受けている我々は、ただ単に運が良かっただけなのだ。くじ引きで当たりを引いただけ。それ以上でも、以下でもない。

だとした時に、我々がすべきことはふたつしかない。

一つは、くじ引きで「当たり」をひいたのだから、その幸運は正面から向き合い、引き受けるべきだということ。不幸なフリをしたり、無理に辛そうな振る舞いをするのは、間違っている。リモートワークの恩恵を受ける幸運を手にしたのだから、それをみすみす手放す必要はない。

もう一つは、こちらの方が断然重要である一方、言葉にするととてもありきたりで陳腐に聞こえてしまうのだが、「自分のできる範囲でできる限りのギブをする」ということだ。

飲食店にせよ、興行ビジネスにせよ、「不要不急」(ちなみに筆者はこの言葉は極めて独善的であり、偏った基準で判断されていると感じるため、嫌いな表現である)だと切り捨てられがちだが、人の生活に潤いやハリをもたらす、なくてはならない存在だと思っている。医療従事者と同様に彼らもまた、誰かにとってはなくてはならない「エッセンシャルワーカー」なのである。

「推しは推せるうちに推せ」という言葉があるが、我々にとってなくてはならないエッセンシャルワーカーに存続し続けてもらうためには、できる範囲で「買い支える」しかない。

緊急事態宣言によりお店を開けることすらできず、「買い支える」ことすらままならず歯がゆい思いをすることも少なくないが、「お店が再開したら必ず行きますからね!そしてたくさん食べます(買います)!」というメッセージを伝え、約束を果たすこと。それだけでも幾分か心が落ち着き、頑張ろうと思える。

そんなことを、コロナ禍で苦労をされているとある飲食店のオーナーが仰っているのをお聞きして、地道であるし微力だけれども、やり続けていこうと決めたのだ。

結局は「エゴ」の域を出ない単なる自己満足かもしれないが、リモートワークの恩恵を「たまたま」受けることができている幸運と帳尻を合わせるには、エゴでも微力でも良いから「何か」をしないと気が済まない性分なのだろう。

これを「ノブレスオブリージュ」と表現するのはあまりにも自己陶酔がすぎるかもしれないが、何もしないよりはよっぽどマシか、と思いながら今日も私たちはリモートワークの恩恵を享受しつづけていくのである。

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