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J-POP創設に関わった人々とシティーポップ #3『はっぴいえんど』が後世に残したモノ。

前の記事:
J-POP創設に関わった人々とシティーポップ #1『はっぴいえんど』
J-POP創設に関わった人々とシティーポップ #2『はっぴいえんど』風街と少し音楽性について。
の続きです

7.風都市について

<風都市の方法論> 
風都市にはいくつかのこだわりがありました。その一つには「風都市のバンドには水ものと興行にはいかせない」というものです。水もの(クラブやキャバレーでの演奏)、興行(歌謡曲、演歌系のステージ)両方には出ないと言うことですから、彼らは自分たちでコンサートを企画してゆかなければバンドの出演機会はなかなか作れないということでもありました。

当時は現在のようにロック・フェスティバルもないし、地方にロックを演奏できるライブ・ハウスもほとんどありませんでしたから、彼らは自らかなり厳しいハードルを設けてしまったといえます。
 もう一つ重要でなおかつ新しかったのは、風都市がアーティストやコンサートをトータルにプロモーションしたことです。アルバムの内容に基づいたジャケットやポスターの制作を自ら行うことは、それまでほとんどなかったことでした。


<「風街ろまん」誕生>
 1971年、はっぴいえんどはJ-ロック史に残る名盤「風街ろまん」を発表します。録音が行われたモウリ・スタジオには、当時日本では最先端だった8トラックの録音設備がありそのおかげで彼らは現在にも通じる素晴らしい音楽を記録することが可能になりました。実は、このアルバムのタイトルは、元々「風都市」となるでした。ところが、石浦が先に「風都市」を自分たちの企画集団に使ってしまったため、「風街ろまん」になったのだそうです。

 彼らのレコード録音に対するこだわりは、それが風都市を破産させたといえるほどのものでした。彼らはスタジオでの録音にそれまででは考えられないほどの時間と労力をかけていましたが、それは彼らが「レコード」という記憶媒体をそれまでとは異なる存在とみなしていたからです。


萩原健太「さよならアメリカ、さよならニッポン」より(2012年追記)
「・・・メディア時代のオリジナリティというのは音源にこそあるということに、彼らは当初から意識的だったんじゃないかな。大量生産がきくレコード盤があって、ラジオがあって・・・。そういう時代においては、もはや生演奏はレコード盤に記憶されたオリジナル音源を再現する場としてのみ機能していたりするわけで。再生メディアの中にこそオリジナルがある、と。」


<はっぴいえんど解散コンサート>
 1973年9月21日東京文京公会堂において、はぴっいえんどの解散コンサートが行われました。出演したアーティストは、南佳孝、吉田美奈子、西岡恭蔵、キャラメル・ママ、ココナッツ・バンク、ムーンライダース、そして主役のはっぴいえんどです。ゲストであがた森魚やコーラスでシュガー・ベイブも出演し、司会はかまやつひろしでした。しかし、このコンサートが開催された時、すでにメンバーは個々の新たなスタートを切っており、それぞれに思いを抱きながらの演奏になりました。

「はっぴいえんどにとって、9・21のコンサートは「ラスト・ワルツ」みたいなものであると同時に、メンバーが次に何をやるかを提示するコンサートでもあった。・・・」
鈴木慶一


<松本隆>
「はっぴいえんど最後のステージは、とっても気持ちよく完全燃焼できた。解散はぼくが決めたことじゃなかったけど、四つどもえの相対的な価値観にしばられることから逃れたいという気持ちはぼくにもあった。
 ドラムはすごく好きだったけど、細野さん以外のベースでドラムを続ける気もしなかったから、これで心置きなく作詞家になれると思った。そして最後にステージからスティックを放り投げたんだ。」
松本隆


<大滝詠一とシュガー・ベイブ>
「・・・ココナッツ・バンクは歌が少し弱いかなと思っていたときに、伊藤銀次が山下達郎の自主制作LPを高円寺の「ムーヴィン」でみつけてきて、それでシュガー・ベイブとのつながりが始まって、一緒に出てもらうことになりました。・・・」
大滝詠一

 このコンサートで彼はココナッツ・バンク(伊藤銀次ほか)の演奏とシュガー・ベイブ(山下達郎ほか)のコーラスをバックに歌いました。そしてこれがナイアガラ・トライアングルVol1へと発展することになります。

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シュガー・ベイブ(村松邦男、大貫妙子、鰐川巳久男、山下達郎、野口明彦)


<南佳孝>
 このコンサートのトップ・バッターは、このライブがデビューとなった南佳孝でした。
「ぼくのデビューは、はっぴいえんどの解散コンサートだったんですよ。1973年9月21日、文京公会堂から。松本隆プロデュースのデビュー・アルバム「摩天楼のヒロイン」の発売も、その日だったしね。・・・」
南佳孝


<鈴木慶一&ムーンライダース>
 1974年、はちみつぱいは解散し、新たなメンバーでムーンライダースを結成します。メンバーは、鈴木慶一(v,g)、鈴木博文(b)、武川雅寛(viol)、岡田徹(key)、樫渕和夫(dr)、椎名和夫(g)、土井正二郎(perc)(その後、土井は脱退し、1977年椎名に代わって白井良明が加入します)
「はっぴいえんどのステージ、おれは『ゆでめん』発売後の日比谷野音のライブと解散コンサートに参加してるんだよ。・・・おれが解散コンサートに呼ばれたのは風都市の石浦信三君の発想じゃないかな。そのときはピアノを弾いたんだ。はっぴいえんどの最初と最後に一緒にやれたのは、いい思い出だし、いい偶然だ。他者から見たら必然かもしれないし。・・・」
鈴木慶一


<ユーミンのデビュー>
 さらにキャラメル・ママは、風都市にも出入りしていた女性アーティストのデビュー・アルバムの編曲・演奏を全面的にまかされることになりました。彼女はその後、J-ポップの歴史上最も重要な女性アーティストになります。それが、後のユーミンこと、若き日の荒井由美でした。

「・・・当時ぼくらと同じような考えを持っていたのが村井邦彦さんだった。彼は基本的にはアメリカン・スタイルのミュージック・ビジネスの幻想を抱いていた。ぼくらは日本の現実とは関係ないことを考えていたんだ。村井さんとはじめて一緒にやったのは笠井紀美子のセッションだった。その後、マッシュルーム・レーベルの仕事を一緒にして、さらにずいぶんたってから呼ばれたのがユーミンのデビュー・アルバムだった。そのときは『一度録音したものがあるけど、自分が考えていたものとはちがうから、もう一度やってきてくれ』ということだった。それが『ひこうき雲』になった。・・・」
細野晴臣


<風都市の経営的失敗>
 はっぴいえんどの解散コンサートは、残念ながら大きな赤字だったそうです。実は、風都市の仕事で黒字となったものはほとんどなく、唯一あがた森魚の「赤色エレジー」だけが大きな利益を生み出したヒット曲でした。
「・・・あがた森魚の『赤色エレジー』がヒットして、そのおいしさに甘えちゃったのが風都市の不幸のはじまりだったかもしれないね。それまでは音楽業界の暗黙の了解に則らない仕事していたのに、そこで業界のやり方にのっかっていくことを覚えた。それは数の信仰がはじまっちゃうということでもあったと思うんだ。・・・」
松本隆

 あがた森魚が映画製作にのめり込み、自主製作映画をつくることになったことも風都市には大きかった。風都市唯一のヒット・ミュージシャンが歌わずに映画にはまりそこに『赤色エレジー』でかせいだお金を使ってしまったことはダブルで経営に影響を与えた。(製作費の半分ぐらいは風都市が出費)もちろん映画がヒットすることはなく、お金はそのまま消えてゆきました。といっても、元々あがた森魚が自ら稼いだお金なのですから、彼には何の罪もないのですが・・・。


<レコード業界の変化と風都市>
 1960年代半ば、日本のレコード業界にCBS、EMI、キャピトル、RCA、フィリップス、ワーナー、アトランティックなど海外の企業が日本のレコード会社との合併という形で日本進出を開始しようとしていました。その中から、CBSソニー、ワーナーパイオニアなどの企業が誕生。

しかし、そうなる以前、日本のレコード会社は外資の進出を食い止めるため、自社の中に洋楽系のレーベルを立ち上げ、そこから発表したレコードの利益を海外の企業に払っていた時期がありました。ここから生まれたのがエミー・ジャクソン、ブルー・コメッツ、ビレッジ・シンガースらによる和製ポップスのヒットでした。
ところが、この和製ポップスはGSのようなロック・サウンドで、それまでの歌謡曲の制作方法とは異なる流れが必要になりました。

日本の市場をほぼ独占していた7社日本コロンビア、ビクター、キング、東芝、テイチク、グラモフォン、クラウンはそれぞれは歌手だけでなく、作詞家、作曲家、編曲家、オーケストラなどを専属としてもっていましたが、それでは対応できないジャンルだったといえます。
 しだいにそのシステムではフォークやGSのブームに対応することができないことが明らかになり、それを社外に外注する必要が生じてきました。
例えば、1966年ジョニー・ティロットソンの「涙くんさよなら」はシンコー・ミュージックの草野昌が自力で制作してその原盤をレコード会社にゆずったことで誕生しました。マイク真木の「バラが咲いた」もその手法で製作されて大ヒットしました。この流れにのり、それまでGSのヒット曲を作っていた作曲家たち橋本淳、筒美京平、阿久悠、村井邦彦らが専属ではなく独立したソングライターとして活躍し始めます。
こうして、日本の歌謡界においても、原盤を制作してそれをレコード会社に売るビジネスが誕生することになりました。

 そして、そのために必要になったのが、主役となるアーティストとそのバックで演奏するスタジオ・ミュージシャン、曲を作り上げるソング・ライティング・チーム、そして、それらを仕切るプロデューサーです。ということは、これらがチームとして完成すれば新しい時代をリードできるのではないか、そう考える人々が風都市を作ったのだと言えます。しかし、そうした音楽業界の隙間は、当時はまだまだ狭く、それだけで食べてゆくのに十分な稼ぎを獲ることは不可能でした。



8.ここが日本の音楽業界の転換点だった。

はっぴいえんどが目指したものが、その支援をしすぎた「風都市企画」を潰してしまう皮肉は悲しい限りですね。
ビジネス的には多大の問題がありそうですが、日本語ロックの原点という視点では「時期が早すぎた」という事なんだろうと思います。売れていれば続いていたという事は、大衆は目の前しか理解できないという事なんでしょう。
荒井由美「コバルト・アワー」1975年 やりたい事を証明したエポックでしたね。しかし食っていけるだけの規模では無かった。

新しい制作方式に嵌る裏方の人材は、「ジャックス」や「はっぴぃえんど」や「はちみつぱい」や「シュガー・ベイブ」のメンバーから排出された。
主役となるアーティストとそのバックで演奏するスタジオ・ミュージシャン、曲を作り上げるソング・ライティング・チーム、そして、それらを仕切るプロデューサーです。
それの中心にいたのが企画集団『風都市』だったのです。

これらがチームとして完成すれば新しい時代をリードできるのではないか、そう考える人々が『風都市』を作ったのだと言えます。

「キャラメル・ママの夢は、マッスルショールズみたにスタジオワークをまとまったリズムセクションでやろうということだった。でも仕事が多かったわけじゃなく、残った作品はユーミン、吉田美奈子、雪村いずみ(アルバム「スーパー・ジェネレーション」)、いしだあゆみ、アグネス・チャンくらいだな。それだけじゃ仕事としては成り立たなかったんだ。当時の日本の音楽界の歌謡曲のシステムは強固で、メジャーはあくまでもメジャーで安定した力があって、隙間があまりなくて、こっちは手が出せなかった。・・・」
細野晴臣


 残念ながら、風都市はその理念の素晴らしさにも関わらず、多額の借金を抱え3年ほどでその活動を停止することになりました。

しかし、風都市の解散後、数年すると「風向き」は変わり始めます。
バラバラになったメンバーはそれぞれにその活躍の場所を見つけ、その多くが大きな成功を収めることになります。

 キャラメル・ママが始めた新しいスタジオ・ワークの仕方は、その後のニューミュージック時代を支えることになり、はっぴいえんどのメンバーは様々なアーティストのプロデュースを担当し、数多くのヒット曲を生み出すことになります。
松本隆が始めた歌謡曲への詞の提供は、大滝詠一などの作曲家とともに歌謡曲のニューミュージック化を進め、現在のJ-ポップへと移項する新しい流れを作ることになりました。
さらに風都市がやろうとしたコンサートのスタイルは全国各地に広まり、地方にも様々なロックフェスティバルやライブハウスが誕生することになります。

「・・・風都市は当たり前のように生まれ、当たり前のようにやり、当たり前のように消滅していった。だから、風都市という名前は残り、その当時のミュージシャンたちも生き残った。そういうことだと思う。
 われわれみんなの出会い自体も、必然的なものだったんじゃないかなあ、という感じがしていますね。あそこにみんな、自然に集まったんだと思う。・・・」
洪栄龍(乱魔堂)



9.old epochの筒美京平氏より先に逝ってしまった大瀧詠一さん。

ロングバケーション48


アメリカに憧れて、スタジオ兼自宅を日本で一番アメリカに近い横田基地脇の瑞穂町??に移住してしまった。

佐野史郎さん(ハピーえんどの大ファン)
大瀧詠一さんが、2013年12月30日に亡くなられた。
解離性動脈瘤。享年65歳。
リンゴを食べていた時に倒れた・・・と聞いた。
「それはぼくぢゃないよ」と言って欲しい。


2013年12月30日、東京都西多摩郡瑞穂町の自宅で倒れ、救急搬送された。死因は解離性動脈瘤とされた。65歳没。


突然の訃報は音楽関係者に大きな衝撃を与え、佐野元春、山下達郎、大貫妙子、吉田美奈子、桑野信義らが追悼のコメントを発表した。
また長年の盟友だった松本隆は自身のTwitterにて「北へ還る十二月の旅人よ」と大瀧の曲「さらばシベリア鉄道」にかけた追悼の辞を捧げている。

2014年1月4日、都内で葬儀が営まれ、約100人の関係者が参列した。式場には未発表である自身の声による「夢で逢えたら」が流され、柩ははっぴいえんどメンバーだった松本隆、鈴木茂、細野晴臣の3人らによって抱えられた。

また、多くのスタッフ・関係者からの要望により、「A LONG VACATION」の発売日で、最期のアルバム「EACH TIME 30th Anniversary Edition」の発売日でもあった3月21日に「お別れの会」が執り行われ、一般参列者向けの献花台も設けられた。

【筆者のつぶやき】

■ほぼ同時期に、佐久間正英氏が逝去された。
筆者の推しメン生田絵梨花の「父の従兄弟」「従伯父」

2014年1月16日に、BOOWYやザ・ブルーハーツ、GLAY、JUDY AND MARYら144組のプロデュースを手がけた、佐久間正英氏が逝去されました。
同じ時期ではありますが、別ジャンルのアーティストをプロデュースしており、日本のJ-POPの発展に寄与した偉大なクリエータであった事は間違いありません。
佐久間氏は、大学の先輩であるジャックスの早川義夫氏との交流もありました。早川義夫氏は岡林信康の「見るまえに跳べ」ではぴいえんどと制作に関わっており、高田渡でも一緒に制作している。そんな早川は、2003年、佐久間正英と「Ces Chiens」を結成。2014年、佐久間が逝去。以降も音楽活動を続けたが、2018年5月、鎌倉歐林洞でのライブを最後に、再び活動を休止している。


この2人がほぼ同時期に亡くなった事は、何か意味があったのでしょうかね?

少なくても現在、米津玄師、Mr.Children、BUMP OF CHICKIN、back number、Official髭dism、Knig Gun、ONE OK ROCKの様な実力があり素敵な我々に感動や心の支えになるJ-POPのアーティストの方々が活躍できているのは、才能があり好きな事を諦めない先人のお陰だと思っています。

我々は素敵な楽曲を豊富に聴ける環境にある事に感謝しなければならないと思います。先人への尊敬と感謝が無くなったら、無法地帯になります。

海外で多くの方に支持されているアニメの様に、J-POPも海外に静かに浸透して行くのだろうと確信しています。
くしくも、産業革命が起こった英国のリバプールから世界のポップミュージックが席捲して各国に影響を与えました。

数十年経って、日本でもJ-POPが花咲きました。それはまるで、日本の工業製品が、特に家電や自動車が世界の消費者に好まれている様に、日本語で歌っているJ-POPが世界から望まれて人気になるのでしょう。
その原点は、「日本語でロックを歌いたい」という素朴な望みでした。それを技術的にできる事を証明してみせたのが「はっぴいえんど」だという事ですね。

終わり

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