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【生田絵梨花】帝国劇場の建て替え2025年について。「レ・ミゼラブル」

1.【筆者のコメント】
三菱地所として「有楽町再開発の一環」らしい。
東宝の収益の3割は不動産収入であり、その集客の目玉が演劇や映画。

日比谷地域だけでも、帝国劇場、シアタークリエビル、日本劇場、東京宝塚ビル、東宝日比谷ビル、東宝日比谷プロムナードビル等。


日本を代表する「映画・演劇の製作配給・興行」の企業。

映画館数では日本一。東映や松竹を押さえて映画製作についても日本一。
映画配給についても、好調。

東宝が15日発表した2024年2月期連結決算は、純利益が前の期比35%増の452億円だった。従来予想を92億円、事前の市場予想平均を68億円上回り、過去最高だった。映画「ゴジラ-1.0」が国内で興行収入70億円超とヒットし、北米でも邦画実写作品として歴代最高の興収を記録した。配当は従来予想より25円多い年85円(前の期は60円)とした。


「三井不動産の東京ミッドタウン日比谷」の開発が先行している



2.東宝、「帝劇ビル」建て替え 隣接ビルと一体再開発

日本経済新聞 2022年9月27日

東宝は27日、出光美術館と共同所有する帝劇ビル(東京・千代田)を建て替えると発表した。現在の建物は竣工から半世紀が経過し、老朽化していたため。施設内にある帝国劇場と出光美術館は2025年をめどにいったん休館し、新しいビルの完成後に再開する。隣接する国際ビルと一体的に再開発する。

帝劇ビルは地下6階、地上9階、塔屋3階建て。初代の帝国劇場は1911年に開設され、現在の施設は1966年に竣工された2代目だ。演劇やミュージカルの聖地として、「レ・ミゼラブル」や堂本光一さんらが出演する「SHOCK」シリーズを上演するなど、文化・芸術の発信拠点の役割を担ってきた。



3.東宝や宝塚の創業者、小林一三が作り上げた映画・演劇の街「日比谷」…生誕150年

読売新聞オンライン 2023/10/28


阪急グループ創始者の小林一三が東京進出で日比谷の街つくり

 23日から東京都千代田区の日比谷地区などで開催されている「第36回東京国際映画祭」。日比谷は映画館や劇場など国内有数のエンターテインメント施設が集中する地域だが、このような街となった理由を考える時、今年生誕150年を迎えた実業家・小林一三(1873~1957)の功績を抜きにしては語れない。小林一三は東宝や、宝塚歌劇団、阪急電鉄、阪急百貨店の創業者として知られるが、小林は日比谷の街づくりにどのような役割を果たしたのだろうか。(デジタル編集部・小関新人)

小林の経済人としての活動は当初は関西中心だったが、関東進出は、現在の東急の源流となる「田園都市株式会社」の経営に関与したことがきっかけとなった。さらに、27年には日本初の電力会社「東京電燈」(現在の東京電力)の経営立て直しを依頼され、28年に同社の副社長に就任した。

 宝塚少女歌劇は、18年に帝国劇場で公演を行い、東京進出を果たしていた。都内では歌舞伎座や新橋演舞場で公演をしていたが、人気となったため、東京での専用劇場の必要性が高まっていた。

そのため、小林は32年に「東京宝塚劇場」を創業し、自ら同社の社長に就任。34年には日比谷に同名の劇場が開場するが、この敷地は、もともと東京電燈が所有しており、経営合理化のために売りに出されていたものだった。また同年、東京宝塚劇場は「日比谷映画劇場」を開場させた。この映画劇場は、定員1700人を超え、全席自由席、入場料50銭均一という、当時としては破格の安さだった。

 小林は、東京宝塚劇場の開場を記念して再版された「宝塚少女歌劇二十年史」に寄せた詩の中に、「日比谷公園に相対して 新しく生まれるべき名所--日比谷アミユーヅメント、センター、これが、私の初夢である」と記しており、当時から日比谷をエンターテインメントの街にする構想があった。この詩の中に、「朗らかに 清く 正しく 美しく」のフレーズもあり、これは現在、東宝のモットーとなっている。さらに、35年には東京宝塚劇場直営の演劇劇場として「有楽座」を開設。この劇場では、歌舞伎や新劇に替わる国民のための新しい現代劇の創造を目指した。

 また、同年に有楽町の日本劇場(日劇)を傘下に収めた東京宝塚劇場は、直営の映画館を増やし、本格的に映画興行に進出。同社などの出資により、36年には映画配給会社「東宝映画配給」を設立。37年には、東宝映画配給や複数の映画制作会社が合併して、同年に「東宝映画」が設立された。また同年、東京宝塚劇場は、帝国劇場を所有する「帝国劇場株式会社」を吸収合併した。43年には東宝映画と東京宝塚劇場が合併し、映画・演劇会社の「東宝」が誕生した。東宝の社名は、東京宝塚劇場の略称である。現在の東宝本社や商業施設「日比谷シャンテ」は、日比谷映画劇場や有楽座のあった敷地にある。

 このように「日比谷アミユーヅメント、センター」は、小林が創業した「東京宝塚劇場」を起点として、同社が設立に関与した会社が小林の意向を受け、作り出されたものといえる。

現在、日比谷シャンテでは、11月5日まで「小林一三生誕一五〇年展 ―東京で大活躍―」が開かれており、小林の業績を振り返る映像やパネル、さらに小林ゆかりの宝塚歌劇団の衣装やゴジラなどが展示されている。

 小林の業績に詳しい、阪急文化財団の仙海義之理事(逸翁美術館館長)は、「山梨出身の小林一三は人生の成り行きで、大阪や兵庫・宝塚を拠点としていろいろな仕事を始めることになった。そんな小林には、自分の仕事が東京で通じるのかという思いは常にあったと思う」と語る。「文化的な事業は場所にとらわれないものだから、小林らしい合理的な視点で東京でも試したいというのはあったはず。東急や東京電燈の仕事に関わりながらも、東京で文化事業の足場を固めたのは、自分が本当にやりたかった仕事だからだろう」

 仙海理事によれば、小林一三の考えていた娯楽とは、家族とともに楽しめるものだった。それは「自分が生まれてすぐに母親が亡くなるといった、小林自身の生い立ちに起因する部分もあるのでは」という。東京宝塚劇場が出来た頃の娯楽の中心は浅草だったが、「浅草は、男性がひとりで楽しむような娯楽もある感じだったので、健全なサラリーマンが楽しめる娯楽があるアミューズメントセンターを日比谷に作ろうとしたのではないか」と小林の意思を推察している。

終わり

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