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「クーリエ:最高機密の運び屋」みました ※ネタバレあり感想(これから見る方は読まない方がよいかも)

「クーリエ:最高機密の運び屋」を見た。世の中的には007 No time two dieがようやく公開されて大盛り上がりの中、裏番組(?)的映画である本作もとても見ごたえがあった。以下、ネタバレを含む感想をまとめたい。そして、事前情報のない方が本作の緊張感を楽しめると思うので、これから見る予定の方はぜひこの文章を読まないでほしい。

 事実に基づく映画なのだが、この事前情報を入れずに見に行ったため、スパイスリラーとしてもとても楽しめた。主人公の1人はベネディクト・カンバーバッチ演じるセールスマンであるグレヴィル・ウィンだ。スパイ活動とは無縁であった彼が、東側ソ連からの接触者であるGRU(ソ連の参謀組織)のペンコフスキー大佐からソ連の機密を受け取り、「運び屋」として活動するというのがストーリーの大筋だ。
 本作はスパイスリラーとしての魅力が画面作りからも伝わってくる点がとりわけよかったと感じた。ソ連で活動するグレヴィルは、一般人ゆえに(当初は)KGBからノーマークであり、西側のセールスマンとしてある種奔放にふるまい、口もよく回っている。それが劇中後半、徐々に重要な「クーリエ」となるにつれ、口数も少なく、「スパイ映画らしい」ふるまいへと変化していく。
 冷戦のさなかの緊迫した状況下でなお、グレヴィルとペンコフスキーは仕事抜きの友情と信頼関係を築いていく。それは、お互いに家族に言えない秘密を抱えながら、何とか家族を守り抜こうという両者の姿勢が東西を超えてちょうど鏡写しのようになっているからだと感じた。一方で、グレヴィルとペンコフスキー自身の友情の描かれ方もある種のフェティッシュ?を感じる、ノワール映画的な良さがあったと感じた。タバコに火をつけるやり取りなどは、スパイ映画らしく、かつノワール的な要素もあって画がすごくよかった。本作は全体的に舞台的な表現が多いと感じたが、中でも物の受け渡しを行う際、言葉を伴わずに行うシーンが多く、この辺りはバレエにおけるマイム(言語を使わず、特定の状況や事物を表現する技法)に似ているなと感じた。
 本作のクライマックスシーンでは、グレヴィルがペンコフスキーとともに劇場へ「白鳥の湖」を見に行くシーンがある。本作の舞台がモスクワであることから、おそらく2人が観劇をしに出掛けたのはボリジョイバレエであり、「白鳥の湖」は看板作品なのでさもありなんという部分はある。しかし、あえて深読みをすれば、史実に基づく本作は、ペンコフスキーが東側世界から脱出することができず、命を落とす結末に終わる点が、ロットバルドに最後は引き裂かれてしまう王子とオデットの関係と相似していると解釈することもできる。
 グレヴィルがペンコフスキーの友情が史実に基づくものであるのかは不明である。しかし、劇中でバレエを見る2人が同じものを共有して、ともに平和を目指したあの瞬間は、何物にも代えがたいものとして輝いて見えた。ペンコフスキーが「ソ連の別の顔を見せよう」といってはじめて観劇へと連れ出した夜から、脱出を図る夜が芸術によってつながっているのがとても切なかった。
 ストーリー全体の象徴として「白鳥の湖」をとらえるならば、「相手への信頼と背信」というモチーフとしても使われているのだろうと思う。「白鳥の湖」では、王子はオデットへの愛を裏切り、オディール(悪役であるロッドバルドが見せた、幻覚としてのオデットのそっくりさん)へ心変わりをするシーンが存在する。本作中では、グレヴィルの妻がスパイ活動に従事するグレヴィルに対して浮気を疑うシーンが登場する(これは前科のあるグレヴィルが完全に悪いが)。この疑念と背信の扱われ方もよかったが、やはり一番に「相手への信頼と背信」を象徴していたのは、イギリスに帰国してからペンコフスキーを救出するために戻ったグレヴィルと、逮捕後に(おそらく過酷な拷問を受けたにもかかわらず)グレヴィルを売らなかったペンコフスキーの関係だ。
 あの面会のシーンにおいて、やつれはてた両者が相手に対して変わらぬ信心と信頼を持ってお互いに接する姿は、月並みな表現になるが、本当に胸を打った。ペンコフスキーにしてみれば、フルシチョフがキューバのミサイルを撤去した事実をおそらくあの場面で初めて知ったのではないだろうか。たとえ自身の行動が無に帰したように思えたとしても、相手を信じた行為が無駄にならなかった、という事実が彼にとって救いになったことを願わずにはいられなかった。
 バレエもスパイ映画も大好きなのでものすごい文の長さになった。言わずもがな、演者の演技も素晴らしいので007と合わせて多くの人に見てもらいたい。

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