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よしや君(きみ)

日本人は「三大○○」と何か三つを一括りに
するのが好きですが…
怨霊も例外ではありません。
そのうちの1人、崇徳院に少しばかり
触れたいと思います。
日本史や古典、和歌が好きな方ならおそらく
ご存知だと思うのですが…この方は、
歴代の天皇の中でも苦労人の天皇でした。

生まれてから亡くなるまで、疎まれ冷遇され
振り回され続けた気の毒な帝が、死後ついに
大魔王となり、朝廷に仕返ししたと言い伝え
られています。

家族に疎まれ、藤原氏にいいように利用され、
保元の乱に敗れ、讃岐に流罪となり、
その後も朝廷から冷たくあしらわれ続け、
世の中を恨みながら崩御した崇徳院。
その4年後、西行法師は讃岐を訪れ、
白峰の御陵で夜を徹し、お経を唱え鎮魂の歌を詠んで崇徳院の御霊を慰めようとしました。

その夜、西行法師は姿を現した崇徳院と
対峙し、現世の恨みや執着を捨て、成仏する
ように説得しましたが、恨みに凝り固まり
魔王になってしまった崇徳院には、
思いは届きませんでした。

どこからともなく飛んできた怪鳥に、
崇徳院が平重盛の命を奪えと命ずると、
怪鳥は「干支が一回りしたら、重盛は亡くなり平家は滅びる」と告げます。
崇徳院は手を叩き小躍りして喜び、その様を見た西行法師は「この方は、もう私の敬愛する
吾が君ではない」と諦めたそうです。
それでも西行法師が よしや君~の歌を詠むと、少し おとなしくなり消えていきました。

この夜から13年後、重盛が亡くなり、
平家は源氏に都を追われ滅亡。
勝った源氏も内訌を繰り返し、血統は
3代で絶えました。
後白河は崇徳院に怯え続け、溺愛する後鳥羽の治世が平穏であるよう、ひたすら願いながら
この世を去りました。
ですが、その願いも空しく、後鳥羽は承久の乱を起こし、崇徳院と同じように流罪となり、
配流先の隠岐で生涯を閉じました。
以後、政権は朝廷から武家へと移り、明治までの600年、崇徳院の「皇を取って民となし民を取って皇となさん」という言葉を体現するカタチ
になったのでした。

恨みを晴らしたように見える崇徳院ですが…
心は安らかになれたのでしょうか。

よしや君 昔の玉の床とても
かからんのちは 何にかはせむ
西行法師