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わたしごと 幼少期〜思春期

幼少期の記憶はあるほうだ
些細なこともたくさん覚えている

一番古い記憶がどれかはわからないが、
たぶん2歳頃からの記憶は充分あると思う

私には姉が二人いて、長女と5歳差
次女とは2歳差の三姉妹

母は30歳で私を産んだ
その頃から鬱を患ったようだ
初めは更年期障害と診断されていたようで
更年期の薬を飲んでいた

次第に悪化し、鬱と診断されたのは私が
社会人になった頃だったと思う

きっかけや原因は本人にしかわからない
母の話を聞いていくと
生い立ちが関係しているらしい

話は戻って私の幼少期
幼い記憶に残っているのは
家族の温もりよりも私の泣き声だ

私は相当な癇癪持ちで親の手を焼かせた
思い通りにいかないとすぐに物を投げたし
姉たちとケンカになると噛みつきにいった

3番目というのもあり、親も私には
それほどかまう余裕がなかったのか
お手上げでほったらかしだったのかは
わからないが(多分両方)泣き喚いても誰も
手を差し伸べてくれなかった寂しさが
今でも忘れずに残っている

思い出すのは悲しい出来事ばかりで
押入れや倉庫に閉じ込められたり
テーブルの足に手を後ろ手に縛られたりしたこともある(私が泣き止まないからやむを得ずそうしたのだろうと思う)

今なら虐待と言われかねないのだけど
当時はそんな風潮もなく悪いことをしたら
叩かれることは当たり前のようにあった

母は手芸や料理、お花など
主婦らしいことが得意でイベントごとなども張り切ってやる人だった
当時のことを本人に聞いたところ
それが生き甲斐だったようだ

そんな器用な一面をもつ母は
子育てに関しては不器用だったと思う

自分の限界を越えるとヒステリックに怒り
最終的には悪いことをした罰だと
叩いて終わらせる

逃げ回れば捕まえられて暗い小屋か
部屋へ連れていかれ戸を閉められる

多分母もそのようにされ育ったのだろう
前の回でも書いた通り母の父は
厳格な九州男児だった

毎日のように泣いていたし
毎日のように怒られていた
怒られることにも慣れてきてしまい
やがて歯向かえるようになると
体罰は成長と共にエスカレートしていった


父は怒ると怖いが普段は怒らず温厚だった
そんな父を母は大好きで
父にいつも柔順だった
そうあるようにと躾けられたらしい

私はそんな母の姿を見て
魅力よりも不満を感じたので
ことあるごとに母とは真逆の方へと
向かっていったように思う

現在の母は長年飲み続けている薬の影響で
まるで頭のネジが2,3個とれてしまった
かのように、自己コントロールがほとんど
効かない身体になってしまった

躁と鬱を繰り返し、入退院も繰り返している
鬱の時は寝続け、躁の時は動き回る
家族は母の状態を中心に廻っている

私は早々に親元を離れて暮らしたが
今は息子の長期入院の時から
退院後の自宅療養期間も
ずっと実家にお世話になっている
(自邸の改装工事中) 

お世話になってもう半年以上経つ
親孝行するはずのいい歳なのに
未だ親の世話になっていて申し訳ない

実家なら安心だね、楽できて良かったね
そう言われることがあるし
自分もその調子に合わせてしまうのだけど
実家にいてもね、大変だよ。
と心の中で呟いている

実際手が掛かるのは
病み上がりのそうちゃんではなく母の方だ
父がまだ元気なので
母の世話や薬の管理をしてくれているが
四六時中大きい子供のような
母の面倒を見るのは大変だ

姉も協力し、なんとかみんなで支え合って
ここまで来ている
一番大変だった頃からもうすぐ20年が経つ
.
.
.

2000年から何年か過ぎた頃
実家の引越がきっかけで
母はオーバーヒートした
手に負えず病院へ行った
後部座席で隣同士座ったけれど
あまりにも惨めな母の姿に
込み上げてくるものがあった

どこで間違えたのだろう
いつからこうなってしまったのだろう
一緒にいる誰もが思っていたと思う 

娘である私は幼い頃からの恨みが募って
母がこうなったのは本人のせいだと
手伝いに来ていた祖母に訴えた

祖母は無言でじっと私を見た
その目はそれ以上言ってはいけないような
気にさせた

やり場のない思いを
受け止めてくれるところもなく
姉妹であれこれ言いながら
不満を解消するだけしかなかった

それ以外当時のことはあまり覚えていない
幼い記憶はたくさんあるのに
私の20代前半の記憶は
自ら隠すように思い出として残らなかった

いつからこうなってしまったのだろう
思い巡っては自分の過去を辿った

小学生の頃までは内弁慶で家ではやかましく外では大人しかった私だが
中学生になると次第に外でも荒れていった

高校生になっても落ち着くことはなく
親には学校や警察に
何度も頭を下げさせてしまった

母は長年フルタイムのパート勤めを
していたが、私が高校3年の頃
内職に転向した

上の姉二人が就職し
稼がなくても良くなったのか
私の素行が心配だったのかはわからないが
毎日家にいてくれるようになった

もう母の存在は疎ましいはずだったのに
家に帰ると母がいるのは嬉しかった
口を利けば最終的にいつも喧嘩になったけど
甘え心はきっと今でも私の中にある

もう少し遡ってもう一度幼少期の続きの話

幼い頃から鍵っ子だった私
3歳から一人でお留守番をしていた
幼稚園バスを降り口で迎えに来るはずの母がいない時も度々あった
先生が不安気な目で大丈夫?
と言ってくれたのを覚えている

急いで家に帰ると鍵がなくて
いつもあるはずの倉庫にもなくて
ずっとガマンしていたトイレが限界になって泣いてしまったことがある

近所のおばさん達が時々通るので
人見知りな私は見つからないように
こっそり隠れていた

怒られるような気がしたのだろう
人見知りというより怒られるのが怖いから
話せない、そういう心境だった

怒られ癖のついてしまった私の表情は
いつも不安気だったと思う
怒られずに育てられたら違ったのだろうか

眠る前はいつも
わけもなく泣きながら寝た
自分が泣きながら眠ることに
なんの疑問も持たなかった

それが私にとっての普通だった
少しずつ周りとズレを感じ始めたのは
きっとこの頃からすでにあったのだけど

母も私も他の家のお母さんや子供達とは
少し違っていた
姉二人はまともだったと思う

私は普通の家に生まれたかった
まともなお母さんに育ててもらいたかった
今でも姉達にそう言ってしまうことがある

.
.
.

そんな私の幼少期から思春期まで
暗い思い出が多いけど明るい思い出も
それなりにあるので問題はない

家族は愛情もたくさん注いでくれた
だから私は今こうして家族と共にいる

母も祖父母も懸命に家族を守ろうとした
それだけは揺るぎないと感じられる
幼い頃から見ていたからわかる
今も充分に感じている

不器用な娘と母のお話
次は明るい思い出を書こうかな








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