わたしごと HSPのこと

息子の治療後遺伝子検査を受けた。
一度目は全体的な一般的な?遺伝子検査。特に異常は見られなかった。
二度目の検査は息子の病気に多いとされる疾患?が見つかるかもしれないのでそこを追求して調べていくらしい。とても丁寧な事前説明を受け、検査を承諾。結果が出るまで長くかかるらしい。

遺伝子。前にも触れたが母は躁鬱病を患い、私もその気質がある。

20代で経験した鬱は鬱病というより鬱症というニュアンスの軽度のものだったと思う。
鬱病を患う母を見ているから鬱病という病がどれほど深刻で重いものか側で見ているからわかる。

とはいえ、うつ症状が治るまでは苦労した。
精神的に不安定なので仕事にもプライベートにも支障が出る。おおよそ5年かけて治り、その後5年かけて何事もなくなった。

今でも落ち込むとその気質は見え隠れするが、自分で調整がきくようになっているので問題はない。

そして最近よく目にするHSPという言葉。
私は当てはまりすぎて少し笑えてしまった。
5人に一人この気質だそうで、繊細で敏感で生きていくのが大変な気質。

5人に一人!仲間がそんなにいるのかー!とちょっと嬉しくなってしまった。
この生きづらさは家族には理解されず、友人にも理解されず今まで生きてきた。

周りには誰もいなかったけど5人に一人の割合でいるらしい!もしかしたら知り合いにも何人かいるかもしれない。

みんな私のように孤独を感じながらそれを隠して生きていたのだろうか。

今は歳を重ねて自分で折り合いをつけられるようになってきたけれど、苦しんでいた幼少期〜青年期当時、学校の先生も医師もカウンセラーも、HSP気質など知る由もなく、わからないが故に"個性だから"と簡単な言葉で枠組みされ、一方的に解決され、本質を理解してもらえず自分の内に留めるしかなかった。

私のようにやるせない想いを感じていた人は他にもいただろうか。

もしこの言葉がもっと早く周知されていたら、私はもう少しラクに生きられた気がする。

伝えたくても上手く伝えられず、周囲に理解してほしくても理解されない悲しみから解放されたらもっと生きやすくなったはずだ。

なにより自分はこの気質なのだと早い段階で認めることができたなら、周りの人と比べ落ち込むこともなかっただろう。

周りの理解。自分への理解。この2つは生きていくうえで大切だと思う。

そんな私の息子も少しその気質がある。
でもそんなことお構い無しで毎日遊びほうけている。

周りの理解があるからだろうか。行動に周りと少しズレがある彼を責める人は誰もいない。いるとしたら私だけ。親だから口うるさく言わなきゃいけない時がある。
そしてそのことも彼はきっと理解している。

良い時代を作っていこう。もう生きづらいなんて誰も思わなくていい。誰もがありのままで認められる時代なのだから。

もしかしたら母もその気質だったのだろうか。多分そうだろうと思う。女は出過ぎないようにと抑えつけられて育った母は、結果自分を解放する術を持てず心を病んだ。

誰も悪くない、そういう社会だった。理解されず苦しんだ人が今までどれほどいただろう。

けれど母は決して不幸ではない。
良い日もたくさんあったはずだ。

息子の病気療養中、実家にお世話になっていたが、家事のほとんどをできず介護が必要な母は鬱の時は何度も謝り、躁のときは意味のわからないことを喋り続けた。

時折、ごめんね、お母さんがこんなんでごめんね、と言う母。眉間には常にシワが寄り、目はいつも申し訳なさそうに下がっていた。

子供としてそんな親の姿はどうにも切なかったけれど、これが母だ。仕方ない。

私はそのたびに"今まで頑張ってきたんだから良いんだよ、今度は私達が頑張る番だよ"と伝えた。この言葉を言うと私も母も周りも落ち着く気配を感じた。

だってその通りだもの、今まで母は毎日フル回転で頑張ってきてくれた。結果オーバーヒートしてしまったけれど。

こう思うのは母には申し訳無いけれど、こうならないように、と身を持って教えてくれたようなものだ。

いつも母の話は尽きない。
どんな状態になっても母は私にとって特別な存在のようだ。

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