"国語教科書の中の「日本」"を読んで思ったこと
石原千秋著:国語教科書の中の「日本」
を読んで、なるほどな、と思った点を書きます。
大変失礼ながら、本の内容をものすごくざっくり書きますと。
私たちは国語の授業で、読解力を学んでいるようで、実際には、教科書に記載されている文章によって、イデオロギーとも呼べる、特定の思想を押し付けられている。その多くは「古き良き日本感」。
本文からの抜粋
「国語力と言う名の道徳教育」
「見えないイデオロギー教育」
「私たちがいかに国語の教科書の思想に影響を受けているか」
なるほど確かに。
国語のテストでは
「作者は何が言いたいのでしょう」
「ここで言っている事は?」
など、文章の読解力を鍛えているようでいて、その実、教訓めいた物語で道徳教育をしている、と言うのは納得感があります。
「おおきなかぶ」「羅生門」「こころ」そして「走れメロス」。多くの人が教科書を通して触れ合った物語ではないでしょうか。
メロスが約束を守ったことで、王様が感動し、改心する。
そういえば、たまに、そうゆう物語ありますよね。主人公の正義感あふれる行動に、悪役が感動し「オレが間違っていた…」的なやつとか。
しかし、この記事をお読みの大人の皆さん。
皆さんの人生の中で、一度でも、そのような事があったでしょうか?
正しい行動をとり続けた結果、悪いやつが心を入れ替えてくれた。
うーーん。
残念だけど、一つも思い当たらない。
そもそも、義務教育=お金を稼ぐための知識を身につけることだと思っていますので。(義務教育の目的は優秀な納税者を育成するため)
学校で学んだ知識が、その人の収入につながる事が重要なのではないか?と思います。
しかし、メロス的な「約束を守る」と言った行動の結果、王様(権力者)が心を入れ替えてくれた、と言うエピソードが、ほぼゼロに近く。
どちらかと言うと、特に大きな組織においては、他人を蹴落としてまで、権力者に媚びを売った人の方が高額な報酬にありつけるという現実を鑑みると。
「走れメロス」を教材として使い続けることに意味はあるのか?
もっと言うと、公正世界仮説のような、「良いことをした人には良い結果が、悪い事をした人には悪い結果がもたらされる」「努力は報われる」と言った考え方が根付いてしまい。
そうではない現実を目の当たりにしたとき、「なんであいつが…」とか、「なんで自分がこんな目に…」と言った逆恨みに近い心境に陥ってしまうのではないか、と言う懸念さえ感じます。
それでも、いまだに
「作者は何が言いたいのでしょう」
「ここで言っている事は?」
などと問うことで、「正解」とされる思考ができる子なのかを試す理由は何なんでしょうね。
本の中では、戦後の復興のためには、皆が同じ考えを持つことが重要だったともあって、それは十分納得できます。
そして、いわゆる「Japan as Number One.」を達成したあとは、「個性」が重視される時代になったけど…国語教育は昔のまま、現在に至る。と言ったところでしょうか。
それでも、出来れば、みんな同じ考えを持っていた方が、なんとなく安心するなぁ…と思ってしまうのは、私自身も、自分が受けた「国語教育」の思想が染みついているからでしょうか?
(^^;
しかし…「走れメロス 指導案」などのキーワードで検索すると、各学校さんが作成した指導案が読めたりして、それを読んだら、ちょっと、ぞっとしてしまいました💦思想教育じゃんっ。