ゲーム時間と運
運の要素が強いゲームがあると、「これ運が強いから何回か繰り返して遊ぶといいよ」と結論付けされる風潮があります。
繰り返して遊ぶために必要なのは、そのゲームが短時間で遊べることです。つまり、運の要素が強いゲームは短時間ゲームであることが望ましいということになるでしょうか。
それはそれとして間違いないと思えますが、例外はあるでしょうか?
例外を考える前に、そもそもその一般論も、「どうしようもなく運が強いけど繰り返し遊べば遊べないこともない」程度の結論になってしまっていないか?という疑問が残ります。世界にそのゲーム一つしかないならば、そのゲームをなんとかして遊べるようにしたいところですが、娯楽がいくつもある実際の世界でわざわざそうする必要はありません。他のゲームで遊べばいいわけですから。
運の要素が強いゲーム、いわゆる運ゲーは(戦略的な面で)何も考えなくても遊べることが良いところです。言い換えれば「楽」なのです。そしてテーブルを囲んだ面子とそれを肴に笑いながら楽しいおしゃべりでもして過ごせれば、それはゲームの役割を十分に果たします。
逆があります。「めんどくさい」ゲームはその時間を邪魔するのです。忘れやすい処理があったり、行動から結果までの過程が複雑だったり、本当にめんどくさい作業があったり。
運ゲーでも良い条件は「めんどくさくない」ことではないかと思います。
「慣れ」というのは、めんどくさを軽減してくれます。短時間ゲームを繰り返すうちにゲームに「慣れ」ることは、ゲームをめんどくさくなくすることに繋がるのです。思考のめんどくささはまさにそうですが、作業のめんどくささも繰り返しによってクセ(ヤミツキ)になってしまうことすら人間にはあります。長時間ゲームは繰り返しにくいため、この利点が活かせません。
ルールが簡単なことは、ルールを忘れるリスクや思い出す手間を軽減してくれます。短時間ゲームは必然的にルールが簡単になります。いえ、もうこれは、タマゴが先かニワトリがという話かもしれません。ルールの把握が困難な短時間ゲームなんてめんどくさくてそもそも始めないのです。
「究極の運ゲー」という話を以前しましたが、「最悪の運ゲー」というのもあります。前者はどうしようもなく運に左右されるゲームのことで、後者は運によって台無しになっているゲームを指します。例えば、どんな道筋(選択や意思決定)を辿ってきても、最後の選択でほぼ結果が決まるという類のものがこれにあたります。最悪です。最悪ながらもここではそれを少しでもポジティブに捉える方法を考えます。例えば、最後の最後までは巧くやっていたことが分かるならば、「結果はどうあれ最良を尽くした」という満足を得ることができます。運の部分を切り捨ててゲーム内容を評価できる(勝ち負けは除く)のですから、救われます。しかし、結果だけを見ると何も考えないプレイヤーと変わらないわけですから、過程で楽しめたかどうかがゲームの評価のウェイトを占めます。
運ゲーでも良いもう一つの条件は「行為そのものが楽しい」ことではないかと思います。
行為にも色々ありますが、長く持続する行為というのは必然的に少なくなります。人が一番長く体験できる行為に「一生」というものがありますが、だいたいはいくつもの行為の積み重ねによって成り立っているだけです。
しかし中には、長くなるほど面白いという行為もあります、例えば、30年間仕込んだドッキリというのは想像できない面白さや面白さ以上の感動があるでしょう。ドキュメンタリーなんかも、5分のものより120分のほうが得られる情報の多さに比例した感情移入体験ができるでしょう。後者の体験に近いものとして挙げることができる「人生ゲーム」は長時間の運ゲーの好例であると思います。仕込みによる感動や達成感はいわゆる「ブラフゲーム」で得られるかもしれません。例えば、「人狼」は短絡的には運ゲーと言えますが、勝利のために必死に仕込みを働いたりすることが出来るわけです。そしてこのゲームもある程度長時間になるゲームです。人生ゲームや人狼には、ルールが簡単という、先にも上げたオプションも備わっています。
奇しくも、日本でメジャーでありながらも「嫌われゲーム」の代名詞である二つのゲームが、どうも良い運ゲーらしいということがわかりました。
ここまで書いておいてなんですが、これらのゲームは私が対象としたい、いわゆるドイツゲームの枠に入っていないように感じられます。ドイツゲームにおける程よい運とはどういうものかは、まだまだ分からないようです。 ただ、その外堀が少しずつ埋めらたという実感はあります。
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