香りの記憶

自分で言うのもなんだけれど、私はとても鼻が利く。
鼻が利くものにとって満員電車は苦行でしかないので、必ず自分の胸元に好きな香りをつけて、なるべく他の香りを認識しないよう努めている。

昨日の昼、外出先から帰社する途中の雑踏の中で、20年振りに懐かしい匂いがした。
思わず振り返る。
今すれ違った誰かの中に、“彼”がいたのだろうか?
絶対にすれ違ったらすぐに分かる、という自信はない、20年も経っているのだ。

でも、“あの香り”だけは間違えるはずがない。

東京にいるとは、共通の友人から聞いていた。
“彼”がつけていた香りは日本では未発売で、当時も確かセレクトショップにしか置いていなかったし、もう10年以上前に廃番になっている。
別れてからただの一度も、あの香りには“再会”していなかった。

油断していた。
無防備だったところに急に飛び込んできたものだから蓋をしていた記憶が一気に溢れ出して、自分でも少し驚くくらいに動揺した。
とうの昔に傷口は塞がって、もう傷跡さえよく目を凝らさないと見えないくらい薄れているのに。

就職氷河期、いわゆるロスジェネ世代の私たちは、あの年の春から秋口まで就職活動に難航していた。
そんな忙しい最中、ふと気付いたら3年付き合った"彼"は2つ歳下の子に心を移していた。
少々家庭環境が複雑なその子の相談に乗っているうちに、同情が恋愛感情へ変わったらしい。
私は比較的早く内定を貰っていたし、なかなか決まらない就職への不安も相まって、卑屈になった部分もあったと言われた。

3年間。
毎日のように傍にいたのに、忙しくて会えなくなった途端こんなに簡単に壊れるのかと人間不信になり、人との距離感の取り方が分からなくなった。
あまりに傍にいたから、私の持ち物にも"彼"の移り香が染み付いていて、完全に消えるまで暫くかかり、ふとした瞬間に匂いが鼻について、随分と長い間辛かった。

完全に香りが消えた頃、夜明けに車を出して、海を見に行った。
淡い藍色だった空がどんどんオレンジに染まって晩秋の太陽が顔を出しきるまで、防波堤に座って眺めていた。
あの朝焼けの光景は、今でも忘れられない。

それから一度も、あの海には行っていない。
あの震災で防波堤は壊れ、TVでチラリと映ったその場所には昔の面影はなかった。
朝焼けの海は、私の記憶にだけ存在する"もう二度と戻れない場所"になった。


今朝、真っ暗闇のなか突然目が覚めた。
夢を、見ていた。
内容は覚えていないけれど、名前を呼ばれた気がする。
すっかり忘れたと思っていた、懐かしい声で。
AM3:30。

眠れなくなって、あの3年間を最初から辿ってみる。
時間が経って色々美化されているかと思ったけれど、そうでもなかった。
苦い思い出はそのまま、若い自分と共にそこに横たわっていた。


あれは確かに恋だったけれど、愛ではなかったのだと思う。


白んできた空の色を見て、ベランダに出た。
ゆっくり明けてゆく東の空を見ながら、「幸せでいて欲しいな」とポツリと思った。
今まで一度も、そんな風に考えたことはなかったのだけれど。
もう二度と会わないと思うけれど、どこかで幸せでいて。
そうしたら、"あれで良かったんだ"と過去が少しだけ肯定できる気がするから。

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