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虹の雨

お題
雨・フォトスタジオ・ピアス

本文

タイル貼りの階段をのぼって地上へ出ると、外は雨だった。
 2月にはめずらしい、どしゃぶりの雨。

 雨音のせいか、それとも単なる酔いのせいか、上司たちが怒鳴らんばかりに2件目の店の相談をし合う声
を背に、美夏は傘を開いた。

 「失礼します、今日はごちそうさまでした。えぇ、地下鉄で帰ります。
すみませーん、お先に」

 笑顔の同僚たちに愛想よく頭を下げて、美夏は雨の中に踏み出した。
アスファルトの上で跳ね返る雨粒が、
エナメルのハイヒールを台無しにしてゆく。

 先月買ったばかりの靴だった。淡い桜色に薄墨を混ぜたような抑えた色合いが、26歳の自分にぴったりだと思った。
ショップの鏡の前で履き心地を確認しながら、美夏はここ数ヶ月、いつも自分の心の大部分
を占める彼女のことを考えていた。

7センチのヒールを履いて並んだら、あのひとを見おろすことになりはしないかと。

美夏がひそかに想う西村綾奈は少年のようなすらりとした外見だが、身長はさほど高くない。

初めて綾奈と会ったのは、3か月前に派遣されたいまの職場――フォトスタジオの事務所でだった。

狭い事務室の片隅でPC画面と首っ引きだった美夏は、ふらりと事務室に入って来た綾奈を見て、
ファッション誌の撮影に呼ばれたモデルの1人だろうと思い込んだ。
モデルの容姿はピンからキリまでバラエティに富んでいるが、どういう訳か、彼女(彼)らは
コミュニケーション能力に長けたフレンドリーなタイプが多い。
そのときの綾奈
も美夏と視線が合うなり、満面の笑顔でこう話しかけてきたのだった。
すでに顔見知りのように。

 「チョコレート好き? 良かった、一緒に食べようよ。でも4個しかないから、みんなには内緒」

事務用の椅子にあぐらをかいて座り、チョコをひと口齧っては
「美味い!」だの
「あ、黒胡椒入りだった。そっちは?」だのと、ひっきりなしに話しかけてくる綾奈に
仕事の手を止めてコーヒーを淹れてやりながら、美夏はたちまち彼女に好意を抱いた。
けして恋愛感情ではなかったけれど。

モデルではなくカメラマンなのだと会話の中で知った。
もったいない、と美夏は内心思ったが、口には出さなかった。
美夏がより心惹かれたのは、整った造作よりも、めまぐるしく変わる表情と
少しかすれた耳に心地好い声のトーンだった。毛玉だらけのセーターとぼろぼろの
ジーンズも、だらしない印象ではなく、むしろ、綾奈の少年のような魅力を際立たせていた。

セーターの襟首から伸びた細いうなじに、美夏の懐かしい記憶が呼び覚まされた。

中学時代の初恋の相手。
隣のクラスの男子生徒だった。
内気な美夏は告白することも出来ず、いつも
後ろ姿を目で追うだけだった。
まだ線の細い肩とすらりと伸びたうなじ、
産毛の生えた子どもっぽい耳たぶ……
そこまで思い出して、美夏は現実に引き戻された。
綾奈の薄い耳たぶには、左右合わせてピアスが5つ、光っていた。

「ねぇ、開けるときって痛くないの?」

思わず距離感のない口調で問いかけてしまい、しまった、と美夏は慌てて口を
つぐんだけれど、綾奈は気を悪くするふうでもなく、えへへと笑った。

「痛いよ~。でも痛いのより、開けるときのぞわぞわする感じがたまんないんだよね。
 それ味わいたくて、10代んとき、やり過ぎた。いまはさすがにやんないけど」

もう大人だし、と笑う綾奈に笑みを返しながら、美夏はまったく別のことを考えていた。

いまより少しだけ幼い綾奈が、鏡を前に、恍惚とした表情で安全ピンを耳たぶに突き刺す光景だ。
貫通した穴の縁に血が滲んでいるのにも構わず、ピンをゆっくりと抜き差しする手を止められず
にいる少年のような少女の姿だ。
苦痛を伴う快感は、眩暈がするほど気持いい。
そのことを、10代の綾奈はいつ、どのような経緯で知ったのか。

そこまで想像して、美夏は組んだ脚をきつく閉じた。興奮していた。
いままで同性はおろか、異性にすら感じたことのない衝動的な欲望だった。

編集後記

これ私が10年以上前に書いた作品なんですが、クオリティ半端ないね。
生成AIには辿り着けない領域に既にいた自分が天才すぎる。

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