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自分で問題を設定していることが、問題だ

「奇跡の原理」ケネス・ワプニック博士著から、考察します。

自分自身でなにかしらの不満や不平を抱くこと、それは頻繁に起こっています。
例えば容姿のこと、お金のこと、仕事内容についてなど、日々たくさんの不平不満を持ち出しては、悩みます。
その問題を解決するために日々奔走しています。

一つ片付いたかと思えば、またすぐに別の問題が発生してそれの解決に奮闘する日々が出てきます。

具体的な解決方法を精霊にたずねても答えることはないでしょう。
それは質問する相手が違います。
精霊には

「私が平安にれるように手伝ってください」

とお願いすることです。
その答えは、だれかとの繋がりとして現れてきます。

赦そうという気持ちの欠如が、問題が発生する原因です。
私は”誰か”を責めています。
それは今現在に限りません。
時間とは、幻ですから昨日今日明日とか関係なく、いつでも赦すことができたなら、それでいいのです。

今私が苦悩・問題だと思っていることは

6月に開催するイベントへが開催するための、準備が進まないことです。
イベントは出店する人も必要だし、来訪する人も必要。
どちらも繋がりなのです。

私が神との分離を信じているがゆえに、訪れている苦悩。

神と分離したと信じているとは自覚がありません。
もっと具体的な、または精神的、抽象的な人との繋がりが無いとは思っているが、それの根本的なことが神との分離とは、自覚が追いつかない。

それを自覚するには、私がやることでもない。
奇跡がおこすこと。
ところが奇跡は意識して起こすのでなく、精霊にゆだねることで成り立つ。
そのスイッチを入れるには、私の意欲は必要だが奇跡そのものは精霊・イエスがやってくれます。

日常生活では具体的な事柄に積極的に取り組むことが善とされ推奨されます。
が、そこに至る前では、自分が積極的にならないのです。
というか、なってもなにもならない、逆効果になるのです。

私のセラピーでお名前を書いてもらい、一度リンクすると私から思いも寄らないことが、生じます。
その相談者によって、全然違うことを言っています。

私はそれを邪魔しないで、あるいみ傍観者な立場においています。
口にする言葉遣いには気を配りますが、それ以外の内容についてはただ任せるだけです。



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