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一/∞

 「一を聞いて十を知る」という。『論語』にある言葉である。普通は「察しの良さ」とか「賢明さ」を表現する言葉だろう。一方「我が道は一を以て之を貫く」ともいう。これも論語の言葉だが、この「一」が何を示しているかというと「忠恕のまごころ」だそうである。忠恕の「忠」は「内なるまごころにそむかぬこと」、「恕」は「まごころによる他人への思いやり」と説明されている (『論語』金谷治 訳注)。共に頻繁に引用されているが、この「一」が何を意味するかを「知って」いるのは孔子さんだけだろう。

 また「一を知りて二を知らず」なる言葉もある。『荘子』の「天地篇」にある言葉である。「機械を使えば人は自分の仕事を機械的に行うようになり、仕事を機械的に行えば機械に頼る心を持つようになる」 (中村雄二郎 著『人類知抄』「ハイゼンベルグ」より) という「機心」に対する説教に狼狽した弟子に「心の内を治める道だけは知っているようだが、外の世界に処する道はまったく心得ていない」と「孔子」の言葉をもって答えたものである。(『荘子 外篇』森三樹三郎 訳注)。水掛け論 過ぎれば洪水 否、大海。

「(辻まことさん曰く) 一を聞いて、いや、三でもよいが、十を知るというその想像力は大したものではない。ましてそれで『知った』と思うのは大変危険だと思う。そうではなく、十の経験を重層してたったひとつのことを知ること、その方が想像力よりも大切だと思う。実際十を重ねて一を知りうるのはまだいい方かもしれない。その一さえ知りえない、それが現実かもしれない。しかしもしも反復して、さらに反復してただ一つのことでも知りえたら、想像力よりもそれはもっと尊いことではあるまいか」——『辻まことの思い出』宇佐美英治 

 ひとたび生じた波紋はどこまで広がるのだろう。ひとたび生じた音が消えることはあるのだろうか。友人が「一を知れ」なる言葉を放ったところに居合わせたことがある。ハッとしたが「その『一』とは何ぞや」と問われることはなく、事は進んだ。自分に放たれたわけではないので問わなかったが、波紋が生じ、言葉が残響した。その場にいた誰もが「一なるもの」を知ってはいないことだけは明らかだった。知っていれば、いや、知りうるものではないことを知っていたのであれば、言葉が放たれることはなかっただろう。