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生粋

 而今の山水は、古仏の道現成なり。ともに法位に住して、究尽の功徳を成ぜり。空劫已前の消息なるがゆゑに、而今の活計なり。朕兆未萌の自己なるがゆゑに、現成の透脱なり。山の諸功徳高広なるをもて、乗雲の道徳、かならず山より通達す。順風の妙功、さだめて山より透脱するなり —— 山水経 —— 『正法眼蔵』 道元

 いま、目の前にある山と水は、そのまま、古仏の説く真実の具体的な現れである。山は山、水は水と、それぞれに、その現象によって完全性を実現している。山と水は、無限の空以前からその本質が躍動しているから、いま、この瞬間にも活動しているのだ。それは万物が形をなす以前からの自己そのものだから、自由自在の形をとって実現している ——  ゲーリー・スナイダー 訳 (重松宗育 和訳)

『野性の実践 (1994)』東京書籍

 なぜか「山水経」が気になっていたのだが、増谷文雄氏の現代語訳付きの『正法眼蔵(二)』をタイミングよく古書店で見つけたので読んでみた。加えて、以前書いたスナイダーの記事を読み返し「山水は我々そのものであり、我々は山水そのものである」部分を追記した。 道元禅師の原文を読んでいると "Before Abraham was, I am" という言葉が思い浮かんできた。

 増谷文雄氏は「道」を「ことば」と訳している。「道」とは「条理」でも「いう」でもあり、新約の「太初に言あり("In the beginning was the Word")」部分の「元始有道」という中国語訳を目にしたことから「条理によって貫かれたもの」と承知した上で「ことば」と訳したようである。「山は体、水は心」と思いきって意訳しようか息するものは、さて誰ぞ。

 いまの山水は、古仏のことばの顕現である。いずれも法に即して、その功徳を究め尽くしたものである。それはこの世界の成立の以前の消息であって、いまもなお活きているのであり、万物のきざしもない古からのことであるから、その顕現は古今をつらぬくものである。かくて、山のもろもろの功徳は高大かつ無辺であるから、あるいは雲に乗って到り、あるいは風に順ってはたらき、自由自在にして到らざるはないのである —— 増谷文雄 現代語訳 —— 『正法眼蔵(二)』