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八重

 十年一昔だといふ。すると自分の生れたことはもうむかしの、むかしの、むかしの、そのまた昔の事である。まだ、すべてが昨日今日のやうにばかりおもはれてゐるのに、いつのまにそんなにすぎさつてしまつたのか———『雲』序文 (抜粋)———山村暮鳥

「雲」@青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000136/files/42755_34855.html

 「十年一昔」という表現が気になり「そういえばどこかに」と探して見つけた、山村暮鳥さんのスワンソングである『雲』の序文の言葉。詩集が出版されたのは1925年だから、今から百年前ということになる。むかしの、むかしの、そのまた昔の、さらにそのまた昔の昔の、むかしの事。

 さて、今はどうだろう。十年前なんて大昔のことになるのか、それとも、百年前と変わらずか。「前回金峰山に来たのはいつだったか」と尋ねると「十年前」と言われ「そうか、もう十年経ったのか」と思ったのだが、実際は八年前だった。「まだ八年か」という感想。昔の事でもない。

 山村さんのように「すべてが昨日今日」のように思えはしないが、振り返ると起伏のある稜線が見える。見えない部分は谷だ。遠くに海も見えている。「海面に踊る無数の光はこれまでに出会った方々の顔」なんて表現したくもなる、朧げながらはっきりした昨日今日の話ではない心象。

 作ろうとして作れるものではない思い出。焦点が合っていない背景が唐突に語り出す時もある。見ているものと見えているもの、見ようとすれば見えなくなるもの、見ようとしなくても見えるもの。伸び縮みする時空、いや、心。迷っている訳でもなく、探している訳でもない「発現」。