光陰
「ああ、間に合わなかったか」次の電車まであと30分ほどある。駅の長椅子に腰掛けぼーっとしていると年季の入ったザックを背負った老人が近づいてきた。「どの山に行ったのだろう」なんて思いつつスマホで帰宅の時間を調べていた。この駅からは確か三つの山にいけるはずだ。自分もそのうちの一つに登り、富士山を眺めてきた帰りである。
親父が生きていたら同じような年だな、なんて想像しつつ隣に腰掛けた老人に会釈をした。少々お疲れの様子である。「ふー」と大きく息を吐き、メガネを外すと、腕から時計を外し、念入りに年季の入った時計のネジを回し始めた。「どちらのお山へ」と話しかけられたので「〇〇山です」と答えると「ああ、今日も富士は綺麗でしたな」と。
「手巻きですか」と聞くと「ああ、これね。親父の形見です」。しばしの沈黙の後、老人は静かに「巻けばまた時が流れ始める、なんてね」と。「俺のは自動巻きです。電池式はどうも好きになれなくて」「そうですか、交換できないものもありますね」「はい」 それから黙ってお互い山の方を眺め電車を待っていた。春分の日の前日の出来事。