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『山の詩集』 05

『岳』から降りて来た男
藤木九三

けさ、途上みち
岳から降りて来た男に遭った——
彼は
年ぢゆう頂を見せない、あの
霧の中の岳から降りて来たのだ
彼は、頭から足の先まで
ずぶずぶに濡れてゐた
——むろん跣足はだしで——
そして着物も、まるで今藍壺から引き上げた許りのやうに
潮たれてはゐたが
全身、光とにほひに濡れ耀いてゐた
彼に近づくと
岳のにほひが犇々ひしひしと迫った
霧のにほひ
苔のにほひ
樹脂やにのにほひ
葉緑素のにほひ、そして
『切り火』のにほひもした
彼は無言で
『あの事は話されない…..』といった風をして
さつさと降りて行った
何処どこへ? もちろんそれは解らない——が
日輪を負うて岳を降つて行つたその男の後ろ姿には
ありありと、眩しい後光が射してゐた。

『屋上登攀者』 藤木九三

『山の詩集』 串田孫一・田中清光 編

 「途上」に「みち」とルビが振られている。どうしたって『あの事は話されない….』が、誰もが知っている。知とか不可知とか分けられる前の「知」。特別なものではないゆえに看過される、未分の大智即大悲。

 本来なんでもないものが、なんでもないことに気づけば夢うつつ、即夢、即現。ありとあらゆる概念に抗う「心」。光でも闇でもないゆえに! 抽斗はいつも空っぽだが、それ以上に満たされることはない。