無心
「山に行ったのは二週間程前だが、足にとってはもう遥か昔のことなんだな」と歩いていて思った。距離は同じでも、平坦な街中を歩くのと山を歩くのでは訳が違うと思っていたが、そう簡単に片付けられるものではない。起伏のない生活に慣れると、起伏は辛く感じる。「起伏があってこそ」と気づいたら気づいたで無意識に無理やり起伏を起こそうなんてことにもなったりする。しかし、そんな想念の波は、歩きはじめてしばらくすると収まり、心と体が合わさってくる。
ふと気づくと、登山口までのアプローチを歩いているかのごとく、歩行距離や所要時間を測ったり、山歩きのシミレーションをしている。いくつか計画を立ててみたものの、どうも気が乗らない。行けば行ったですっきりするのはわかってはいるのだがぴったりくるものがない。そんな訳で往復6kmばかりの街歩き。目的地である古本屋で手にしたのはアウトドアエッセイ。日当たりの良い尾根歩きをしたいのだが、いつものように思ってもみなかった山を選ぶのかもしれない。
本日手にした、バリー・ロペス著『水と砂のうた』の冒頭で引用されている言葉である。トーマス・マートンといえば『新しい人』を読んだことがあったか。最近「超個の個」なる表現を知ったが「個」は常に「超個」なのではなかろうか。個と超個は重なり合いつつも縁のない二重の円の様なものではなかろうか.... などと言ったところで「我有り我無し、自ずから自然に」に変わりはない。山に行くのではなく山に入れば山になり、人間においては人となるだけのことか。