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無事

五月の雉
蔵原伸二郎

風の旅びとがこつそり尾根道を通る
ここはしずかな山の斜面
一匹の雌きじが 卵を抱いている
青いハンカチのように
夕明かりの中を よぎる蝶
谷間をくだる せせらぎの音
ふきやもぐさの匂いが
天に匂う
  (どこからも鉄砲の音などきこえはしない)

一番高い山の端に陽がおちる
乳いろのもやが谷々からのぼつてくる
やがて、うす化粧した娘のような新月が
もやの中からゆつくりと顔を出す
——今晩は、きじのおばさん——
平和な時間がすぎてゆく
きじの腹の下で最初の卵がかえる
月かげにぬれてひよこがよろめく
親きじがやさしくそれをひきよせる
  (どこからも鉄砲の音などきこえはしない)

風の中で歌う空つぽの子守唄
「詩学」1955 (昭和30) 年1月号

 なんとなく『詩の中の風景』という、石垣りんさんの本を手にとって、パッと開いたら出てきた詩。繰り返される「(どこからも鉄砲の音などきこえはしない)」という一文に目を引かれた。

 戦争の話だけではないだろう。思い出したのは「撃ち方止め」という、澤木興道さんの言葉。共に戦争を経験されているからこそか。先日久しぶりにやってきた歌のことばがようやく解れてきた。