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感涙

 『老子』(小川環樹 訳注) を読んでいたら、第5章の「天地不仁」という言葉に引っ掛かった。湯川秀樹博士を兄に持つ訳者が参考にしていると思われる、アーサー・ウェイリーの英訳は "Heaven and Earth are ruthless"。"Ruthless" とは不仁、即ち、無慈悲という意味である。天地不仁に続き「聖人不仁」と老子は喝破する。その後、天地の間は「ふいご」の様なものとの喩えと、多言への諫言が続くが「不仁」とはつながらない。

 「天地は (仁でも) 不仁でもない」であれば、引っ掛かかることはなかっただろう。「不仁」と言うからには「仁」という観念が既に存在していたと思われるが、孔子への牽制なのか、莫妄想的なものなのかは定かではない。深掘りするほどの知識も興味もないが、論語の「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」という言葉には共鳴する。「先生、朝から夕べの間は何をするのでしょう」と聞く弟子がいたら、呵呵大笑しただろうか。

[追記]

 「不仁」の部分を "Impartial" と英訳している方もおられる。"Partial" が「部分的」という意味なので「部分的ではない」すなわち「公平である」となるらしい。「いかにも」だが「真意は老子のみぞ知る」だろう。"Personal (個人的)" と "Impersonal (非個人的)" と分けて考えたりするが "Partial" も "Impartial" も含め "Individual (不可分)" ではなかろうか。そうであっても「縁起」という思想にとらわれてしまえばそれまでだが。

 別に理解を求めていたわけではないのだが「天地不仁」の意がなんだか解けてきたような気がする。「聖人不仁」のくだりは「聖俗」という分別意識ありきの「聖」を指すのではないか。「ふいご」とは呼吸のことで、大きく吸って吐けば、言うべきことなど一言も残らず、すっからかん。孔子と老子の関係は、臨済と普化に似ている様な気がする。どちらが欠けても妙味が失せる。陰陽を生じさせる太極は常に素知らぬ顔をしている。