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発見

 山にある日は「ひなたの山」、街にある日は「日翳の山」、そうしてこの写実と抽象の二つをらせん形によじ登ることによって、さらにその頂きに、毅然と光っている形而上の真の「山」に到達するルートを発見したいとこいねがっているともいえます——

『日翳の山 ひなたの山 (1958)』 上田哲農

 上田哲農さんの本を再読。上記は父親に捧げた『日翳の山 ひなたの山』の後書きの抜粋。離そうとしても離れない「行為」と「思索」。前者は写実的な「ひなたの山」、後者は抽象的な「日翳の山」だと語っている。本格的な「山屋」である上田さん。里山をほっつき歩くだけの俺からは想像できない経験をしているのだろうが共感する部分が多々ある。

 山について語れるほど山に行っていないし、語れるようになるために足を運ぶわけでもなく、歩いたことのない道を歩きたくなった時に山へと向かう。人気のない山に独りで登るのもいいし、誰かと人気の山に登るのもいいが、できるだけ歩いたことのない道を歩きたい。上田さん自身が装幀した本の函の "Discovered" にはじめて気づいた。粋だなぁ。

[追記]

 『辻まことの世界』の矢内原伊作氏による解説に下記の言葉を見つけた。上述の上田氏の言葉と同じ響きがある。勝手な類推に過ぎないのかもしれないが『アルプ』に集った「核心」のようにも思える。背後にも光があり、内にも光がある。映し出されているものは共作ではなかろうか。洞窟は常にがらんどうである。目に見えぬ光の彩りが宙を舞う。

 辻まことのなかには、自然人と都会人とが同居していた。というよりもこの二つの微妙なバランスを作りだし、ついには両者を渾然とした一つのものに高めることが生涯の歩みであり、その思想の核となった。自然人・都会人という言葉は、本能・知性と言い換えることもでき、ハートと思考、あるいは感性・理性と言い換えることもできよう。むろん、両者をそれぞれ薄めて妥協させることが問題ではなく、両者をそれぞれ研ぎすまし徹底させることで両者の向うがわへ突き抜けることが問題だったのである——解説・矢内原伊作

 『辻まことの世界 (1977)』