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「名文」

 先日、ある店でザックを手に取ったら、あまりにも軽いので驚いた。以来、買い換える方向に心が向かっていたのだが、手持ちのザックを空にしてみたら思った以上に軽かったので買い換える気はすっかり失せてしまった。また、現在愛用している革製の登山靴が重く感じる時があるので「軽い登山靴を一足」と思ってもいるのだが、なんとなく今の靴に落ち着きそうな気がして、思いは宙ぶらりんのままである。その登山靴にしても履いているうちに印象が大きく変わったのだ…. うーん、なんとも面白くない文章だ。たしか「山靴」について上田哲農さんが書いたものがあったはずだ、と『きのうの山 きょうの山』を開いてみる。

上田哲農 著『きのうの山 きょうの山』(中公文庫) より

 ぐうの音も出ない「名文 (勿論、個人的に)」である。少し前のページに「倦怠」と題された文章があったが、うまく写真に収められなかったので以下に引用する。ふと「名文とは何か」と思いついたままに綴り始めたのだが、名文家と呼ばれる方々は「過去」の作家であることが多いのではないか。「過去」とは言え、単に時間軸的な話である。心は軽々と時空を超越する一方、過去/現在/未来と厳然と分けたりもする。「名文とは何か」という問いから久しぶりに、山を書き、また、描く好きな作家の一人である上田さんの『きのうの山 きょうの山』を紐解くことになった。しばし「名文  (勿論、個人的に)」に浸ってみようか。

「倦怠」上田哲農
 
 山からもちかえった雑草を写生しようとしている。白い紙のうえには、山が「やま」であったときのいくつかの姿が重なりあって———筆はさっぱり、すすもうとしない。

 アトリエの窓からみえる西の空は、すき透きった初秋の色。雲が、ながれる。想念も、ながれる。

 手にとどくところにありそうで、その実、きのうはきのうとなり、遠い、遠い、遠くなってしまった山へのおもい。

 何かしら、限りなく、一生懸命だったもの。それは、山にあったいちにちだけのものであった。

上田哲農 著『きのうの山 きょうの山』(中公文庫) より