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無心

 「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」という論語の言葉がある。昔、ギリシャ哲学を教える先輩に「朝に道がわかったとして、なぜその瞬間ではなく、夕方なんですかね」と問うと「昼寝するんじゃない」との答えが返ってきた。さて、胡蝶の夢でも見るのであろうか。

 ざっくり、現実離れした老荘、一方、現実に即した孔子と理解されているように見受けられるが、冒頭の言葉から推測するに、一概にそうとも言えないように思える。道があるかどうか定かではないのは悟りも同様。言葉にすることができないものは言葉にすることはできない。

 ガリレオにコペルニクス、そして、ダーウィンと、常識は何度も覆されてきたが、今後も何度も覆るだろう。なんといっても無限の宇宙に浮かぶ極微の星の住人の考えである。「『自分』のことさえわからないのに何をわかっているのだろう」なんて子供の頃から思ってきた。

 「わからない」も「わかる」も慢心の世界だが、その間 (あわい) はどうだろう。「天使が通り過ぎる」とは「会話や座談が途切れ一座の者が黙り込むこと (大辞泉)」を指すフランスの諺だが、趙州が草履を頭に乗せ何も言わず立ち去ったという「南泉斬猫」の公案を思い出す。

 巷には無数の「教え」が溢れているが、どれもこれも古の「賢人」の話を土台にしているようにみえる。しかし、その土台とて永遠なるものではあるまい。いくら無数の思いで埋め尽くされようと白紙部分は残る。その白紙部分に飛び込めば、ありのまま、不可思議千万である。