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ドバイへ行く理由

10歳の頃、週末になると少しサイズの大きい自転車に乗って、隣町の大きなショッピングモールを目指すのが楽しみでした。何かを買うために行くのではなく、ただ行きたいから行く。見慣れない街の景色に高揚し、もっともっと新しい風景を見たいと、どんどんペダルを漕ぎました。

いつからか、純粋な欲求のままに行動することは、減ってしまったように思います。大人になると、その行動にはどのような目的があり、何を解決出来るのか、という問いが無意識のうちについて回ります。例えば『知識を得るために本を読む。』『経験を得るためにこの機会に飛び込む。』など。周りからも、なぜその本を読むの? なぜそこに行くの? と目的を聞かれることが増えていきます。せっかく時間と労力を使うなら、何かメリットを得られなければ勿体無いのではないか、という前提がそこにあるような気がしてなりません。

子供の頃は、そんなこと気にしてませんでした。サッカーをしたいからサッカーをする。ゲームをしたいからゲームをする。それでよかった、なのに、大人になると、ランニングしたいからランニングするんです。とは言わずに、健康のためにランニングしてます。と言ったりします。本当に健康のためにランニングをしている人もいるでしょうが、ただ走るのが好きだからランニングしている人もいるでしょう。しかし、ランニングしたいからランニングしているというのは、どこかバカっぽい響きがあるので、無意識のうちに理由を作っているのかも。

かくいう私も「なぜドバイに行くの?」と聞かれれば、急速に発展している国をこの目で見たいからとか、それらしい理由を話そうとしてしまいます。でも本当は「ドバイに行きたいからドバイに行く」というだけのことなのです。目的も無ければ、意味も無い。そんな行動。でも、逆に言うと、この歳になるとそんな感情は貴重なんじゃないかと思うのです。常に『〜のため』を考えて行動してしまうからこそ、自分の中にある純粋な欲求に従い、これは私がやりたいからやる、行きたいから行く、それでいいのだ、と思うようにしてます。
なぜなら、数多くの目的を達成することだけが人生では無いと思うからです。死ぬ時に楽しく充実した人生だったと思えればそれで御の字。死ぬまでに可能な限り充実した時間を過ごせるように、自分の中にある純粋な欲求に耳を傾けて生きていきたいと思いました。

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