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富士山に寄せる心象風景

富士山に2014年の大雪の日に来て、2週間街から出ることができませんでした。
どうしようもなく、ある一家に長く滞在させてもらい、町の人、移住者の人と交流したことを今でもよく覚えています。雪の中をスーパーまで買い物に行き、パスタを買って帰り、ペペロンチーノを作ったりしていました。そのせいで、ペペロンチーノという、長いあだ名をもらい、これはその後も思い出されたように使われます。

そのときに、過ごした日々は、どこにいても自分にとって忘れがたいものでした。

富士山でそののち働くことになり、五合目で過ごす日々が始まります。
富士吉田口五合目は、朝日が山頂に行かなくても見えるため、朝早起きをして、仕事の前に何度も見に行きます。また、お中道という、登山道と反対側の遊歩道に夜に行き、流れ星や、月を眺めていました。また、お中道には鳥が多くいて、時に雛が道のまん中でうろたえていることもありました。

働いている人たちとは、ほぼ毎日顔を合わせ、ずっと過ごしていたので、濃い人間関係になります。山から基本的に降りれず、台風の日にはスバルラインが閉鎖され、お店も閉まります。そんな時、夜の仕事がない時間、深く話し込んだりしたことを覚えています。

時には、友達も富士山に登りに来ました。卒業論文が富士山のことについてで、一緒に富士吉田の地域を回った友達で、東京からでした。下山道が、つらかったといい、またその表情も疲れていたことが印象的でした。

日本人も多かったですが、海外からのゲストもたくさんいます。仕事終わりに夜富士山に月明かりのもと登り、英会話の練習を兼ねて話しかけます。ブルガリアからの人で、ブルガリアは、日本と同じように常に敗戦国だったということを言ってくれました。自分が関心を持ったことのない国から来ている人の事に興味を持ちました。

夏が終わり、春に行っていた有機農業の学校に行く事は決めており、そのほかの事は、なにもわからないままでしたが。たまたま友達が北海道へゆく、フェリーにのると。また、席が空いているとチャンスをくれ、北海道へ。北海道で猟師をしながら、地域起こし協会隊になった友人を訪れます。ヒグマの肉や、地元の料理屋さんなど案内してくれ、彼も地域で生きていこうと頑張っていることが伝わってきました。

アジア、アフリカ諸国の人と出会い、自分は何もできずただ暖かく受け入れてもらっていたように思います。自分と同じ名前の職員の方がおり、すごく良くして頂きました。パーマカルチャーという言葉を知ったのも、その学校がきっかけでした。

この頃から、長野の石の湯ロッジに働きに行くようになります。その合間、ゲストハウスめぐりをしていました。2014年は、いろいろなゲストハウスに行くのにいいときでした。特に、あるゲストハウスにいたとき、イスラム国のテロが起き、平和について国境を越えてゲストと、女将と話しました。日本で、このゲストハウスでいい経験をした人が多くいれば、世界は平和になるという女将の元、研修に来ていた人と共に、そのためにできることをしようと語りあいます。

ひと冬を志賀高原ですごし、テレマークスキーをしっかり教わり、富士山に帰ります。その夏は、ガイドとして活動しました。未熟にもかかわらず、人から強く信頼される初めての経験で、ガイドの仕事、富士山でそういう生き方をしている人たちと関わったことは深く自分に刻まれました。

このとき、シェアハウスに暮らします。
前から一緒だった女の子に、僕以外に男3人で、大勢の兄、姉ができたような暮らしでした。
1人の恋バナが、行った居酒屋で盛り上がり、後日彼は寿退居をします。
このときの5人の関わりは、またシェアハウス自体も今はなくなってしまいますが、またこの仲間であったときは思い出話は尽きません。

富士山に来ると決めたときにも、来てからも、海外に出たらいいと言われ続けます。
アメリカ、アパラチアントレイルにいこうとおもい、あるアウトドアギアのショップ人と仲良くなり、実際に行かれた人と会うものの、結局はオーストラリアに決めます。タスマニア島に行くと決め、再び長野のゲストハウスでニュージーランドにいくというスタッフと、盛り上がってビザを取りました。

別れ際に、友人から白樺のこぶでできたコップをもらいました。
それは、向こうでの旅と、帰ってきてからの富士山に帰るまでの日々、自分を守っていてくれたように思います。それが会話の糸口となる事が多かったですから。

帰国後、有機農業の学校での、大学生とのワークショップを行い、冬に岩手へ友人とともに旅行をします。今度は鹿猟をする同級生が大船渡市で生きており、ボランティア二人と共に、訪ねに行きます。一人は、地域に入り、ひとりは、軽トラに犬とともにたびをしつつ暮らし、今は奥さんを見つけて、廃墟の海の家を直しながら、バスでバーを営んでいます。

静岡の地元で作られている島田地鶏を、藤野という自然発生的なエコビレッジの地域の友人から、貰い受けます。それを知らずに、後に烏骨鶏、星野ブラックという品種の鶏を仕入れて、友人達に配りました。バスのバーにも、烏骨鶏はいます。

ある時から、庭に二羽鶏がいます、と、いう言葉をいろいろな場所で言うようになり、鶏のいる暮らしが豊かなものだと伝える機会が多くなりました。始まりは、有機農業の学校でしたが、だんだんと自分の言葉や経験から語られることが5年経ち増えてきたように思います。

富士山には、家族のように思う人達ばかりがいて、姉のような人達や、再び山の上で暮らすことになり、今回は頼りになる、兄が多く増えました。台風の日に、真剣に登ろうとする人と向き合って、相手の話を聞きつつ、判断できるような情報を与えたりする仕事です。

自分が、家族のように思っている大切な人たちがいるこの場所に、来てくれた人達が悲しい思いをせずに、なにかを受け取って帰ることができればという思いで、いま富士山にいます。

フリーランス、専業で活動していますが、パーマカルチャーの記事、書き物等、基本的に無料で公開しています。仕事に充てられる時間を削って執筆しているので、もし、活動に心を動かされた方がいたら、1000円から7000円のスケール型のドネーションでご支援いただけたらとても嬉しいです。