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音楽と戦争② ラ・マルセイエーズ

チャイコフスキーの序曲「1812年」に引用されている『ラ・マルセイエーズ』( La Marseillaise)は、フランスの国歌として知られてます。一般的には、フランス革命の際の革命歌という認識され、自由・平等・博愛を象徴するフランスの三色旗とペアでイメージされてますが、歌詞は過激です。第1番の歌詞をwikiから引用してみます。
行こう 祖国の子らよ
栄光の日が来た!
我らに向かって 暴君の
血まみれの旗が 掲げられた
血まみれの旗が 掲げられた
聞こえるか 戦場の
残忍な敵兵の咆哮を?
奴らは汝らの元に来て
汝らの子と妻の 喉を搔き切る!
武器を取れ 市民らよ
隊列を組め
進もう 進もう!
汚れた血が
我らの畑の畝を満たすまで!
過激なのは当然で、もともとは革命歌というよりマルセイユの義勇兵が出陣を鼓舞するために作曲された軍歌です。クロード・ジョゼフ・ルージェ・ド・リールという軍人が作詞作曲したとされる。つまり、軍歌として作詞作曲された歌です。作曲されたのは1792年で戦争の相手はハプスブルク帝国とプロイセンです。バスティーユ監獄の襲撃は1789年なので、フランス革命の始まりとは直接関係ありません。これはよく誤解されていますね。「ラ・マルセイエーズ」が生まれた背景ですが、ハプスブルクとプロイセンは職業軍人による軍隊、フランスは義勇兵、ようするにポランティアの軍隊というところがミソです。なぜフランスはボランティアの軍隊だったのが。それまでは、貴族が主体になって傭兵とか低賃金で雇った私設の軍隊が戦争してました。プロイセンやハプスブルクも同じです。しかし、プロイセンが職業軍人の軍隊を整備してから、プロイセンが急速に台頭したのは世界史の授業で教わる通りです。ハプスブルクはプロイセンとの戦争(シュレジエン戦争)に負けてから職業軍人の軍隊を整備しています。フランスは、革命が起きてから貴族たちは財産を持って国外に逃れたり、1792年の時点で国外にとどまって戦争に参加した貴族(軍)も相手の王侯貴族とは利害が一致している訳で、内通してまるで戦いにならなかったようです。そもそもマリー・アントワネットはハプスブルクの女帝マリア・テレジアの娘です。この辺りは、「ベルバラ」の話の舞台背景ですね。
そこで、フランス側は、義勇兵という名のボランティア軍隊をかき集めて市民の軍隊を急増して外的と戦った。ボランティア=素人の軍隊なので、規律も統制も取れない。軍隊行進曲や気持ちを鼓舞する軍歌が必要になったというのが「ラ・マルセイエーズ」誕生の背景です。元々のタイトルも「ライン軍のための軍歌 」(Chant de guerre pour l'armée du Rhin)だった。ルイ16世とマリー・アントワネットらを幽閉したテュイルリー宮襲撃事件の直前にマルセイユ連盟兵がパリ入城した時に歌っていたのをパリ市民か聴いて流行し、"La Marseillaise armée"=マルセイユ軍(の歌)から「ラ・マルセイエーズ」となっのというのが最終的に「ラ・マルセイエーズ」という曲目が定着したというのが定説。
ようするにフランス国歌である「ラ・マルセイエーズ」は軍歌として成立した歌だったということですね。そうするとチャイコフスキーの序曲「1812年」での使用法は大正解ということになります。

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